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[コメント] SUPER 8 スーパーエイト(2011/米)

SUPER 8』――コダック社が開発した八ミリフィルムの規格名に過ぎないはずのそれが何やら神聖な響きさえ帯びてくる。ジョエル・コートニーエル・ファニングライアン・リーライリー・グリフィスガブリエル・バッソ、私はあなたたちを一生忘れない。現在考えうる限りで最良のアメリカ映画。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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まず、これが『E.T.』『未知との遭遇』さらには『宇宙戦争』を中心としたスティーヴン・スピルバーグのフィルムに多くを負った映画であることについては指摘するまでもないだろう。また少年たちの冒険という点で『スタンド・バイ・ミー』や『グーニーズ』などを想い起こす人もいるかもしれないし、近年の作に目を転じても、たとえばエイリアンの望郷には『第9地区』の、怪物の見せ方に関してはJ・J・エイブラムス自身の『クローバーフィールド HAKAISHA』の影をそれぞれ認めることもできる。これらをオマージュと呼ぶのか、それとも単に参照や影響と云うに留めるべきなのかについて私は興味を持たないが、ジョージ・A・ロメロディック・スミスの名前にさえ触れてみせる『SUPER 8』にはそのような語られ方を望んでいる節すら窺える。しかしそれは映画史に根を下ろした作品にとっては当然のことであり、また同時に、すべてのよい映画にとってそうであるように、最重要の事柄ではない。私としてはとりあえず次の点を記すに留めておく。『SUPER 8』は撮影者の異同にもかかわらず、エイブラムスの前作『スター・トレック』のように水平に棚引く光源不明の光が画面を彩る。その「きらきらと輝く暗黒」の画面は(仔細に検証すればまったくの別物だったとしても)ヴィルモス・ジグモンド未知との遭遇』のように感動的だ。どうしてそれが感動的なのか、そんなことは云うまでもないだろう――要するに、それは誰にも分からない。理由を欠いたまま、ただ瞳と胸を打つ。

あるいは、これはもうほとんどすべてのスピルバーグ作品を超えてしまっていると云いたくもある。エイブラムスの卓越したアクティング・ディレクションはまったく映画出演歴を持たない、もしくはわずかにあるばかりのコートニー、グリフィス、リー、バッソ、そしてザック・ミルズから瑞々しいコメディ・シーンを引き出してみせる(とりわけ火薬狂いの歯列矯正っ子リーの可笑しさときたら!)。既に多くのキャリアを積んでいるファニングにしてもこれが最良の仕事ではないか。「どこか暗い影を引きずった大人びた少女」から「刑事の妻」へと一瞬で変貌してしまう多重的な演技に息を呑んだのは劇中の少年たちだけではないはずだ。そしてゾンビ・メイキャプの彼女がコートニーの首筋にキスをするシーン(または彼がメイキャップのために彼女の顔に触れるシーン)に代表されるいささか倒錯しつつも正統な男女のロマンス演出、これはもうスピルバーグには逆立ちをしてもできない芸当である(これについては、スピルバーグはそんなことに関心を持ったためしがない、と云うべきかもしれない。アメリカ映画の正統的な継承者のように振舞いながら、実のところ彼はどこまでも私的な異端の作家だから)。

クロースアップの効用をよく弁えているのも頼もしい。コートニーとエイリアンの「接触」の仕方は『E.T.』である以上に『宇宙戦争』なのだが、それにもかかわらず彼らは心を通わせ合うらしい。それはコートニーが懸命に吐き出す言葉ではなく、ただアップの切り返し=見つめ合うことによってのみ保証される。エイリアンの姿が作中人物と観客から隠されつづけるのはサスペンス創出のためであるとともに、このシーンを導くためにほかならない。もしくはもっと基本的なところとして、オープニング・シーンの雪とブランコ、自転車が駆け抜ける町並み、列車事故の翌日にその現場を臨む丘などなどの情景の在り方にこの映画のすばらしさを求めてもよいだろう。もちろん列車事故シーンを筆頭とした破壊と混乱の光景に現代的なスペクタクル映画のひとつの達成を見ることもできる。

最後に、これは「光」と「事故」の映画だ、という云い方を試みておく。ここで事故とは「人智を超えた事態」ほどの意味で、ゆえに最適の語ではないかもしれないけれども、ともかく少年たちは「見てしまう」「撮ってしまう」ことで物語に巻き込まれてゆく。列車が転覆すること以上にこの「てしまう」の感覚こそが事故なのだが、その列車転覆は光を撒き散らしながら全体が破片に分解されてゆく点において、同じく光を溢れさせながらも逆に種々雑多のモノを寄せ集めて一隻の宇宙船を出現させるラストシーンと一対の事故として響き合う。とは云え、そもそも、感光に足る光量がある状況でカメラが回ってさえいれば人の意志や計画など無関係に「撮れて/写ってしまう」のが「映画」なのだから、「光」と「事故」の映画とは「映画」の映画を云い換えたものに過ぎないだろう。しかし、事実『SUPER 8』はあまりにも膨らんだ私の期待を遥かに超えたものとしてスクリーンに現れた。それはまさに「光」の「事故」と云うべき体験だった――などと云ったら話を私個人に引きつけすぎているかもしれないけれども。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (7 人)Orpheus[*] サイモン64[*] ガリガリ博士 緑雨[*] 甘崎庵[*] ジョー・チップ 赤い戦車[*]

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