[コメント] 一命(2011/日)
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かつて多くの黒白映画がモノトーンでしかない画面をいかに豊かに撮り上げるか苦心した一方、黒白映画を原典に持つ色彩映画『一命』はむしろ(とりわけ屋内シーンにおいて)モノトーン性を強調した画面を基調とする。林田裕至の仕事だろう、黒の濃淡だけで誂えた「襖」が禍々しくていい。
ところで、映画とは「人間」を描くものだ、と云う人がいる。無条件に同意を表明することはせずとも、なるほど確かに一理ありそうな意見だ。しかし人間を描くとはいったいどういうことか。容易には答えの出ない問いだろうが、人間一般などというものはどうにも撮りようがないことを考えれば、「他が取って代わることのできない、その人」を描くことがすなわちそれだとひとまずは云えるかもしれない。したがってここでは「個人的」とか「私的」といったことがキイになるはずだ。
話を『一命』に戻すと、この市川海老蔵は三白眼をぎろぎろさせてたいそうな迫力だが、私はとてもじゃないがこの人にはついていけない。進んで相手方の土俵(井伊家が標榜する武士道の論理)に立って、その云い分に対して最大限に寄り添ってもなお残る矛盾を突くというやり口、ディベート的にはたいへん上手なのだろうと感心するけれどこれが下手すると仲代達矢以上に厭らしく、行動としては「青木崇高・波岡一喜・新井浩文の髷を切り取る」「竹光で立ち回る」あたりにあらわれるそれは、結局のところ自らの首尾一貫ぶりを誇示して、その正当性を仮想の第三者にアッピールする振舞いでしかないのではないか。云い換えれば、この市川は自身の私憤を公的ものに仮装する手続きに汲々になっている。髷を取られた侍が出仕できないさまを「武士道なんて下らんものですネ」と笑うとか、そんなまだるっこしい手続きはどうでもよいのだ。大義だ公憤だと叫ばれてもこっちとしてはなんだか大儀なだけで興奮しないのだから、もっと素直に私憤を爆発させて率直に殺戮を繰り広げればよいじゃないか。たとえ正当性が欠けていようが、他者から批判を受けようが、そんなもの知ったことかと突っ走る個人的で私的なエモーションの主体こそが映画の描くべき人間というやつなんじゃないか。もちろん『一命』にしてもまた『切腹』にしても、そういった伝統的なキャラクタ運用の論理とは一線を画したところに肝があることは承知している。しかしそれを成功に導くための手管に芸が乏しいという指摘は避けがたい。
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