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[コメント] TIME タイム(2011/米)

ジャスティン・ティンバーレイクアマンダ・セイフライドは清潔感があって素敵度の高い好男好女だが、両名のカップリングがもたらすときめきは最大ではない。むしろティンバーレイク×オリヴィア・ワイルド、セイフライド×キリアン・マーフィの組合せのほうが夢は大きい。しかり、私は夢追い人である。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







極端な世界観の導入が「劇映画」にまつわる思考を刺激する。

たとえば、私たちはその日常生活を送る上で滅多に「走らない」。もちろんジョガーの諸氏においてはその限りではないかもしれないが、それとて決して全力疾走ではないはずだ。ほんの半日ほど往来を眺めていれば即座に気づく通り、この文明社会において全力で疾走などをしている輩は得てして児童である。要するに、いい大人は走らない。せいぜい電車やバスの乗車、はたまた出社やアポイントメントの時刻に遅れそうという場合でしか走ることはないだろう。翻って、劇映画に生きる人々はなんとまあよく走ることか。しかしなぜゆえに彼らは走るのか、むろん統計の取りようもないのだが、それはしばしば機銃掃射や人喰い獣のアタックから逃れるためであるらしい。すなわち生命の危機である。「走らないと死ぬから走る」という事態が、劇映画の中では私たちの生活実感に比して数千倍の頻度で起こっている。云うまでもなく「走る」とは同一の時間量で他の手段(多くの場合「歩く」)より長い距離を移動する運動にすぎず、したがって上の「走らないと死ぬ」というのは往々にして完全に厳密ではない。突っ立ったままでも弾丸は身体を逸れるかもしれないし、獣は目標を転じて踵を返すかもしれない。ところが『TIME タイム』である。諸々の事情でワイルドの余命がわずかとなり、その息子ティンバーレイクは彼女に自らの時間を与える=触れるために疾走する。ワイルドもまた疾走する。これまで無数に繰り返されてきた「走らないと死ぬから走る」という状況がこれほど厳密に展開された劇映画はおそらく多くない。云い換えれば、ここで走ることの運動性と一個の生命の存亡が分かちがたく結びついたさまは、いいかげんに拵えられたアクション映画よりも遥かに虚構らしい。しかしその徹底された虚構性が却って「現実」やら「真実」やらに肉迫するのだろうか、私たちは否応なく動揺させられてしまう。

また「誕生から二五年を経過すると身体の成長/老化が停止する」というこの物語の基盤も劇映画における年齢・容貌の在り方に目を向けさせる。基準の種類や厳緩に差はあれど、主演俳優であろうがエキストラであろうが画面に現れる人々は例外なく何らかの「選別」を経ている(容姿、演技力、人気、ギャランティ、拘束時間etc.)。当然ながらこの『TIME タイム』に認められる被写体の選別基準のひとつは「二五歳(もしくはそれ未満)に見えるか」である。いや、なんだか四〇がらみの人も出てたよ。というのはとりあえず彼らの老け度の個体差に解消させるとして、なるほどこの映画に明らかな後期高齢者は写り込んでいない。ときに私たちは「こんな美男美女ばかり出てくる映画なんて現実離れしていてつまらん」だの「こんなどこにでもいそうなしょぼくれた連中しか出ない映画の何が面白いんだ」だの好き勝手を云うが、年齢にしろ容貌にしろ「選別」によって被写体の画一化傾向が進みすぎると確かに映画の質は損なわれるようだ。アンドリュー・ニコルがどこまで意図したかは定かではないが、異常な設定を貫き通したこの作品は私たちに「ま、なんやかんやありますけれども、やっぱし爺か婆のひとりふたりは欲しいものですね」と映画のあらまほしき姿を示唆する。大仰な例を挙げてみよう。たとえば『リオ・ブラボー』からウォルター・ブレナンが失われたとしたら、同時に映画の面白さもどれほど失われてしまうか、まったく計り知れないではないか。

(評価:★4)

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