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[コメント] 愛と希望の街(1959/日)

役者がつまらない。ヌーヴェルヴァーグにしてもネオレアリズモにしても、それはまず役者の魅力の提示法を更新するものとしてあったはずだ。その意味では望月優子や靴磨きの小母さんらがよい。道行く客に向かって発する「磨きませんか?」の声に滲む必死さ・卑屈さ・諦めほか諸々のニュアンスに戦慄する。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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しかし何より「鳩」というのがよく出来た仕掛けだ。藤川弘志および望月が鳩の帰巣を期待していたにしてもそれは多分に不確実のものであり、劇中では当然のように詐欺呼ばわりされているけれども実際のところその犯罪性はかなり曖昧ではないか(また「鳩」そのものが、映画においては一種の「情けなさ」のようなものを持ち込む働きをするんですね。比較的最近の映画になりますが、たとえば『リトル・ヴォイス』『24時間4万回の奇跡』)。頭のよい人にありがちな「(テーマを)語りすぎ」の映画にも見えるが、核の部分には意図的に曖昧さが施されており、映画を単純な一面性から救っている。ラストカットで藤川が見せる笑顔にも同様のことが云えるだろう。むろんハッピー・エンディングと云うことはできないが、靴磨きや鳩売りで生計を立てていた頃よりも、工場で働き始めた藤川の家の暮らしぶりは向上するはずだ。夜学にも通えるかもしれないし、時代は後に高度経済成長期と呼ばれるものだ。人並み以上の生活が送れるようになるのも夢ではない。もちろん、これらは彼らより経済的に豊かな時代を生きる観客としての私の勝手な云い分だろう。しかし工場で働かざるをえなくなった藤川や、あるいは藤川と富める富永ユキらの断絶ぶりを「不幸」と決めつけることも、同様の無責任さから逃れたものではない。幸福だの不幸だのといった外野からの言説を宙吊りにしてしまう程度に、大島渚の語りは(具体的水準で云えば、たとえばラストカットの藤川の笑顔は)曖昧で、多義的だ。

貧富の差を端的に(つまり視覚的に)提示するべき美術は及第点といったところか。ロケーション撮影は概ねよい。工業地帯というのがよいのだ。人工的で怪物的な相貌の「ガスタンク」は私に小津を思い起こさせる。「経済的な貧しさを厳しく描く」ことを小津は『東京の宿』をはじめとした作品で本当に厳しく、ときに壮絶なまでにやっていた。いかにもいいかげんにつけられた風の「<松竹>ヌーヴェルヴァーグ」という呼称は、実はなかなかに云い得て妙なのかもしらない。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)irodori 寒山拾得[*]

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