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[コメント] バンクーバーの朝日(2014/日)

象徴的なデフォルマシオンを施しつつも写実性を基調とした時代物のオープンセットは、現代日本映画としては同じく原田満生が手掛けた『許されざる者』と並んで傑作と云っていい(一方、写実よりもファンタジーに軸足を置いた国産オープンセットで優れていた近年の作は磯田典宏の『舞妓はレディ』です)。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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また、渡邊崇による劇伴音楽も作曲・編曲・楽器編成・演奏の点でお定まりの型を斥けた創造性があって、聴きどころに富んでいる。

ところで、「移民」は映画にとって主要な題材のひとつである。たとえばアメリカ合衆国。少数の先住民族を除けば(元から少数だったのではなく、「少数にさせられた」と云ったほうが正確ですが)、たかだかこの五〇〇年以内に移り住んできた人々によってのみ構成されるアメリカ合衆国が作る映画は、煎じ詰めればそのすべてが「移民」の映画だった。と云ってはさすがに暴論が過ぎるとしても、そのような側面もまるで無ではないはずだ。正面切って「移民」を中心に据えたアメリカ映画の直近の傑作としては、ジェームズ・グレイエヴァの告白』を挙げるのがまず適当だろう。一方、現代ヨーロッパ映画においても移民は時事的かつ普遍的な問題として並々ならぬ関心が寄せられている。ヨーロッパ映画の総数からしてみればごく一部でしかないはずの日本公開作に限っても、いくつもの「移民」の映画が見出される。たとえばアキ・カウリスマキル・アーヴルの靴みがき』はその最も切実で実り豊かな成果のひとつに数えることができる。

それでは、どうして「移民」の映画が数多く撮られているのだろうか。映画の作り手たちやその祖先が実際に移民だったから、という答えは、とりわけアメリカ映画においてはよく当てはまりそうだ。ときに積極的であり、ときに消極的であるだろう移住の理由や、彼らの移住先における(移民二世以下にとっては、ルーツが移民であることにおける)困難であったり歓びであったりが物語として魅力的であったということも考えられるだろう。もう少し抽象的な次元で云えば、「離郷・望郷」「越境」や「マイノリティ」といった主題が映画に求められるアクション・エモーションと相性がよいということもあったかもしれない。しかしながらこのような話題は私の手に余るので、これ以上に立ち入ることは控えよう。

翻って日本映画である。まずは私の無知・不見識が責められるべきだとしても、(在日韓国・朝鮮人を例外として)「移民」の映画と呼びうる日本映画を数えて十指を折るのはなかなか骨の折れそうな作業だ(たとえばヴェセンテ・アモリン汚れた心』なども、製作国の上から云えば日本映画ではありません)。もちろんアメリカ合衆国と日本の移民事情は相当に異なる。しかし過去においても現在においても日本が移民と無縁であったわけではまったくない。「移民」の日本映画が欠けがちであることに「日本映画」の貧しさの一側面を見出してしまうのは拙速な行いだろうか。ともあれ、「東宝の正月映画」という日本映画にとって最大級の規模で製作・公開される『バンクーバーの朝日』には、まず題材的な価値がある。

さて、ここまでを踏まえてみれば、この映画に覚えた素朴な不満もいくらかは減殺されそうだ。たとえば、宮崎あおいユースケ・サンタマリア本上まなみといった著名なキャストがほとんど匿名的な端役扱いしか受けていないことに「何たる僻事か!」と見ている最中はたいそう憤ったものだが、これも「朝日軍と取り立てて深い関係を持っていたわけでもない日系人たちにとっても、朝日軍は心の拠りどころとなっていた」ことを表現することにかけて、誤った演出ではない。妻夫木聡高畑充希を除く各キャラクタや各エピソードのひとつびとつに踏み込まない作劇も、当時の移民事情を多角的に取り上げることを優先した結果と思い込めば、ひとたび振り上げた拳を下ろすことに躊躇しないで済む(今や妻夫木はキャリアを積んでさまざまの役をこなせる俳優になりましたが、やはりこのように不器用でナイーヴな好青年は適役ですね。高畑の上手なことには舌を巻きました。「私を野球に連れてって」歌唱シーンはもう少し脚本が段取りを整えてあげなければ気の毒だと思いましたが)。池松壮亮の扱いもやはり淡白なのだが、「未踏の祖国」に「帰国」した彼と妻夫木らがスクリーンを介して「再会」する(しかし、それが本当に池松であるかは判然しない!)シーンについては、むしろそのあっけなさによって物語の酷薄が深く刻み込まれていると云うべきだろう。

以上、私は『バンクーバーの朝日』をもっぱら「移民」の映画の面から語ってきたが、それでもこれは「野球」の映画でもあるはずだ。いくら朝日軍の戦略がいわゆるスモール・ベースボールであったにしても、野球映画としての『バンクーバーの朝日』がいかにも平熱的すぎる展開に終始するのはいただけない。マイケル・リッチーがんばれ!ベアーズ』がたかがフライ捕球を感動的なクライマクスに仕立ててみせたことを想えばなおさらである。この一点を取り上げても監督と脚本家の連携が不十分だったのではないかと疑われるのだが、それでもなお私は『バンクーバーの朝日』を祝福したい。その動機はすでに上で書き尽くされているはずである。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)けにろん[*] ぽんしゅう[*]

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