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[コメント] わたしは、ダニエル・ブレイク(2016/英=仏=ベルギー)

主旨主義的観客による過大評価と、作品が叩きつける露骨な主旨の強さに目を曇らされまいとするあまり、却って映画の豊かさを享け損ねた視聴覚主義的観客による過小評価に引き裂かれ続けてきたケン・ローチのフィルモグラフィにあって、これは(少なくとも私にとって)『ケス』に次いで重要重大な映画だ。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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国家にとって国民は常に数字である。国家が国民のひとりびとりの内に代替不可能の唯一性を見出すことはない。

わたしは、ダニエル・ブレイク』は「代替」「代理」を巡る映画である。

ダニエルやケイティに対する職安職員の杓子定規な対応を目の当たりにすれば義憤に駆られずにはいられないが、職員らとて嬉々としてその人情に悖る振舞いに興じているのではないだろう。彼らも(たとえ業種区分の上では正規ないし非正規雇用の公務員だったとしても、実質的には)常に馘首の可能性を孕みながら、高の知れた禄を食んでせいぜい生活する賃労働者に過ぎないはずだ。(巻頭でダニエルと就労可否診断の問答を繰り広げる女性が「事業を委託された米系企業の」職員であることが象徴的に示すように)「抽象」でしかありえない国家は往々にして「代理人」の姿を借りて私たちに現前するが、彼らは勤務時間内における自らの人格を「国家の代理人であること」に費やすことで、ダニエルやケイティの「かけがえなさ」つまりは尊厳を無視することができる。

しかし国家がどのように見做そうとも、ダニエルは、ケイティは、かけがえのない=代替不可能の存在であるはずだ。それが単なる美辞麗句ではなく厳然たる事実であることを証明するために、映画は演出・脚本・演技・撮影・美術・衣裳といった諸職能を総動員し、彼/彼女の表情や所作や発声のひとつびとつを愚直に積み重ねてゆくことで「具体的に」人物を造型する(その過程では、チャイナを交えたシーンを筆頭とする喜劇的場面も要請されるだろう)。むろん、ここで私が云っているのは「映画」にとって何の変哲もない当然に過ぎる事柄でしかないが、その当然を遂行する精度・練度の高さにかけて、『わたしは、ダニエル・ブレイク』はケン・ローチの作品歴の上でもいっとう切実な映画である。

わたしは生きている。尊厳がある。余人をもって代えうる統計上の数字ではない。かけがえのない存在だ。――“I, Daniel Blake”はその最も端的な声明だが、その三語の連なりがダニエルの口から発せられることはない。観客はケイティの「代読」によってしかそれを聴くことができないだろう。その苦みを私たちは享け止めきらなくてはならない。

(評価:★4)

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