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[コメント] カメラを止めるな!(2017/日)

廃墟のロケーションに利がある。空間的な使い込みが手緩いという恨めしさは当然に残るが、逆光きらめく白昼の草叢であるところの屋外とはよく対照する。照明設計は暗部の創出を顧みずに平板のきらいがある他面で、怪異・惨劇を白日のもとで繰り広げようとする「晴れやかさ」の意志と志向を宣言している。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







劇中劇『ONE CUT OF THE DEAD』はゾンビ映画ではない。むろん、ここで「映画」の定義を云々することに首を突っ込もうというのではない。端的にこの劇中劇は「生放送のテレビドラマ」として設定されている、というのがその謂いだ。『ONE CUT OF THE DEAD』撮影に際して生起する種々の障害は、そのほとんどが、リテイクが可能な環境であれば障害たりえることもない。取り繕うことなく「非-映画」に直進するこの潔さは、たとえば「ゾンビ映画制作」を題材に採り入れた昨今の作が(まるで自らがディジタル撮影であることを恥じ、その糊塗を企てているとでもいうかのように)かつて「映画」の一要件であった「フィルム」を強調することに余念なかったのを思い返せば、いっそうに瞭らかだろう。すなわち、J・J・エイブラムスSUPER 8 スーパーエイト』はフィルムの規格名称を自らの標題とし、吉田大八桐島、部活やめるってよ』は八ミリフィルムカメラを構えた神木隆之介をポスターヴィジュアルに採用し、沖田修一キツツキと雨』は「フィルム」と名づけられた主題歌を備えようとする。

さて、しかし、この劇中劇の目的は「カメラを止め」ないことに尽きてしまうのだろうか。カメラ・オペレータが山口友和から浅森咲希奈に交代する場面で、カメラは地面に転がったまま数十秒間放置されていた。このような「放送事故」が許されるのであれば、カメラを止めないことはおよそ容易きわまりない。停止釦を押しさえしなければよいのだ。

なぜ五芒星は屋上に描かれるのか。なぜそれを俯瞰で撮り収めるフレーミングが終幕に要請されるのか。『ONE CUT OF THE DEAD』の真の目的が「カメラを止めないこと」ではなく、「カメラの(重力による)位置エネルギーの増大」にあるからだ。諸々のアクシデントによって不断に脚本の改変が強いられても、したがってこれだけは譲れない。人間ピラミッドを拵えるという無理を冒してでも、このときカメラは全篇を通じて最高の位置に引き上げられなければならない。

『ONE CUT OF THE DEAD』が終幕と同時にカメラの位置エネルギーを最大化させようとする三七分間を指すならば、『カメラを止めるな!』とは、『カメラを高く掲げよ!』に改題される可能性を常に孕んだ九六分間としてある。

(評価:★3)

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