[コメント] アメリカン・グラフィティ(1973/米)
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もちろん、「ラジオ」によってそれらの音楽たちに芯を通すという仕掛けをルーカスは忘れていないのだが。
さて、ルーカスは私にとってよく分からない監督のひとりなのだが、スピルバーグやコッポラと比べて才能がないのは明らかだとしても、しかしまったく見所を持たない演出家なのだろうか。いや、そんなことはないだろう。まず、この映画はその「自動車」への偏執ぶりで私たちを圧倒する。まったく大袈裟でなしにほとんどすべてのカットに自動車が写っているという事実がまず端的にそれなのだが、物語にしてもどこまでも自動車を軸に展開される。それについては例を挙げるまでもないだろうが、たとえばチャールズ・マーティン・スミスの自動車入手/喪失/発見。リチャード・ドレイファスが不良たちと関わりあう羽目になるのはボンネットだかトランクだかに坐っていたためだ。この「自動車」の映画の終幕を要請するのは自動車の「大破」事故であり、ドレイファスの「飛行機」搭乗である。この映画は物語の終了とドレイファスの旅立ちと自動車からの別離を等号で結んでいる(ドレイファスが小さな点となった自動車を見下ろして映画は終わる!)。
しかし以上に述べたルーカスの偏執とは、演出家としての才能を証し立てるものというよりも、単に彼の性癖に過ぎないと云ったほうが適当なのかもしれない(cf.『THX−1138』の偏執的なヴィジュアル)。むしろ私が才能を感じるのは、演出が特筆すべき簡潔さを見せた場面であり、それはたとえばスミスが通りすがりの男に酒の購入を頼むシーンだ。あっさりと、というよりも積極的にスミスの頼みを受けて店に入る男。数秒も待たぬうちに男は店を走り出てスミスに品物を投げ渡す。店主は男を追っていささかの躊躇もなしに発砲する。これはちょっと驚くべき簡潔さだ。あるいは終盤のレースシーンでの事故演出もその簡潔さにおいて際立っている(なにせ、どうして事故になったのかもよく分からない)。また、スミスが盗まれた自動車を発見するシーンの直前だったか、ポール・ル・マットがガス・ステーションを訪れる短いシーンがあるが、そこには簡潔な構図とSF的な光・闇の造型を持つカットが紛れ込んでいて目を惹く。単なる青春映画として済ませておくことができない細部を多く持っているという意味で、確かにこれは平凡な映画ではない。
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