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[コメント] ハリーの災難(1956/米)

本当に奇蹟のような映画とはこの映画のことを云うのではないだろうか。こんな映画がありうるなんてちょっと信じられない。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「一人の生きている人間と一個の人間の死体は、どちらがより具体的な存在か」という問題は実はそう易々と答えられるものではないと思うが、いずれにせよこの映画の中で「ハリー」と名づけられている死体は徐々に具体性を剥奪され抽象的なものに成り下がっていく存在としてある。映画の当初においてはその素性はまったくの謎でありながら、しかし一個の具体的な死体として振舞い、ゆえにその全身さえもスクリーンに映し出されていたハリーであるが、物語が進むにつれ、素性が明らかになるにつれ、埋められ掘り返されるにつれ、次第に具体性を奪われ抽象的な存在と化していく。シャーリー・マクレインの夫であったとか、ミルドレッド・ナトウィックの一撃が死因ではないかとかいった、ハリーに関する「情報」は増していく一方であるにもかかわらずである(情報とは、云うまでもなく、本来であれば「具体性」をかたちづくるはずのものである)。

その証拠に、ハリーの肉体(の一部)が最後にスクリーンに映ったのは、ハリーがマクレインの夫であったという決定的な情報が観客に与えられるシーンの直前であり、それ以後は(ラストシーンとバスタブのワンカットを除けば)一瞬たりともハリーが私たち観客の目に触れることはなくなる。

また、死体を埋める/掘り返すという作業さえも繰り返されるにつれ次第に省略されるようになり、「埋めた直後」「掘り返した直後」のカットが示されるばかりになる。これがハリーの「抽象化」でなくていったい何なのだろうか。埋める/掘り返すというきわめて具体的な物を対象とするきわめて具体的なはずの作業が抽象的な儀式のごとくなっていくさまの面白さ!

このようにハリーの死体は「物体」「小道具」「マクガフィン」といった名で呼ぶことさえ躊躇われるような、云わば抽象的な「概念」と化していきながら、しかしますます作品世界の中心に君臨し、作中人物たち(の行動)を支配していく。この映画が滑稽であるのは、誰が殺したわけでもない死体に作中人物が振り回されるからでもなければ、ハリーの死体が作中人物の都合でぞんざいに扱われていくからでもなく、作中人物及び彼らの行動という「具体的なもの」が「抽象的なもの」であるところのハリーの死体に情けなく「敗北」を重ねるからである。ここで、なぜ「抽象的なもの」に対する「具体的なもの」の敗北が滑稽でありえるのかと問われれば、「映画」とはそもそも「具体性」が「抽象性」に勝利する場を指す語のことだから、と答えることができよう(映画の画面に映し出されるものはすべて具体的なものです。「概念」や「感情」といった抽象的なものは画面に映りません。だからこそ演出家・撮影者・演技者たちは概念や感情といったものを具体的なものとして提示しようと頭を絞るのです)。

その意味で『ハリーの災難』は非常にシニカルな映画であり、この映画における笑いもシニカルなものであることは間違いない。だが、ラストカットがハリーの足の大写しであるのは、ハリーの具体性を回復させようというヒッチコックの優しさか、それとも「映画はやはり『具体性』が勝利する場である」というヒッチコックの宣言か。いずれにせよ、ハリーから具体性が剥奪されていくさま、「抽象的なもの」と化したハリーに作中人物たちが支配されていくさまのヒッチコック演出はまったく驚異的と云うほかない。私が『ハリーの災難』を「本当に奇蹟のような映画」と呼ぶのもそのためだ。

以上のことに加えて、ロバート・バークスは絶好調の撮影を見せ、バーナード・ハーマンは愉快な音楽を聴かせてくれる。さらにマクレインは非常に可愛らしいし、エドマンド・グウェンも実に愛すべきキャラクタを造型している。アーニー坊やを演じるジェリー・マザーズはなんだか小津映画の島津雅彦みたいだ。というわけで、これはとんでもない傑作。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)けにろん[*] 煽尼采 ゑぎ

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