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[コメント] アギーレ 神の怒り(1972/独)

「撮影」という行為自体が無茶であり、その無茶を貫き通すことで「映画」にとっての何がしかが生まれるのではないか、という妄執こそが『地獄の黙示録』を導いている。ここでのヘルツォークは、あるいはクラウス・キンスキー以上にアギーレとの同化を果たしている。鮮やかな色彩感覚による異形のコスチューム・プレイ。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







見所の多い映画ではあるけれども、ここでは原住民たちが放ってくる「矢」に話題を絞って述べてみたい。矢の(映画的)特性としてまずはじめに挙げられるべきは、矢が放たれるときに生じる「音」の「小ささ」であろう。「銃」に準じる射程距離を持つ矢にとって、銃との決定的な(映画的)差異とは「音の大小」である。ここでその矢の「小音性」は「唐突さ」をもたらす。銃とは異なり、矢の場合は(その飛来を視認することができなければ)その音の小ささゆえ、矢が身辺に達するまで攻撃を受けていることすら認識できないということ。ここでのヘルツォークはそうした矢の唐突さを追求しており、その唐突さ(これは矢の出所の不明、つまり敵の正体の不明も意味している)が征服隊の無力さを際立たせている。さらに、矢は一般的には「殺傷力」についても銃以下であるため、矢は(銃と比すると)緩慢な死を準備する。すなわち、唐突で緩慢な死。この映画において、なぜ原住民たちは征服隊を攻撃するのに矢を用いるのか。「現実的に」云えば、むろんそれは「矢が彼らの唯一の中/遠距離用武器だから(銃は持っていないから)」であるが、「映画的に」云えば、「映画が『唐突で緩慢な死』を要請しており、それは矢のみがもたらしうるものだから」である。

 参考:黒澤明蜘蛛巣城』は、この『アギーレ 神の怒り』とはまたベクトルの異なる矢の映画的使用法を見せています。端的に云えば、それは「量」の過剰さと「迫真性」です。一方でドン・シーゲル真昼の死闘』における矢は、その「唐突さ」において『アギーレ』と近似していると云えるでしょう。またシルヴェスター・スタローンは近作『ランボー 最後の戦場』において、矢に対して(矢にあるまじき)強大な殺傷力を与えており、これもまた注目に値します(矢が強大な殺傷力を持っているというのは他の『ランボー』シリーズにも云えることなのかもしれません―実はよく憶えていません!―が、その「見せ方」について云えばやはり『最後の戦場』が最も優れていた、ような気がします)。

(評価:★4)

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