コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 善き人のためのソナタ(2006/独)

善き人>ソナタ。
たかひこ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 一秒一秒を記憶に刻み込まれるような、張り詰めた緊張感の漂う映像だ。ところどころに配置された仕掛けが露骨ながらも惹きこまれる。決して「お話」を語るだけに終わっていない入魂の映像作品だといえるだろう。

 もちろんストーリーも素晴らしい。派手さはないけれど、しっかりと作り混まれた、ささやかなエピソードの数々。クライマックスはなかなかに複雑だけど、とくに説明のないまま終わっていく慎ましさもいい。「大きな物語」への批判は、こうあるべきなのだろう。サブカルチャー重視などでは無しに。

 マルクス主義やスターリニズムの帰結としての知識人の党による支配。そのような「知」に対する反発として「情」を持ち出す、90年代以降のさまざまな運動。しかし、そのような二項対立で考える限りこの作品は読み解けない。

 一般に芸術は「情」を司るものとして考えられている。そのような思考の延長として、ロジカルな「知」の排除が芸術の本質という見方が現在もある。それはさまざまな言葉で語られてはいるが、古くからあり新しくない。それに反して、アリストテレスの時代から語られてきた「知/情/意」の問題は未だに新しい。なぜなら理解されていないからだ。カントは悟性、感性、構想力(判断力も相同的なものとされている)という名で同じことを考えている。通俗的な見方とは異なるが、カントが興味深いのは、構想力を悟性と感性を統合するより上位の能力としているところだと私は考える。

 なぜドライマンは体制の崩壊まで作品を書きつづけ、その後はやめてしまったのか。なぜクリスタは、一度は“ファン”に答え「生」を望みながら、ドライマンの眼差しで、再度「死」を決意してしまったのか。なぜヴィスラーはシュタージとしての義務を放棄し、かつ、個人的な恋慕を抑圧してまで、彼らの恋仲を存続さしめたのか。

 それは彼らが「知」でも「情」でもなく「意」であろうとしたからだ。

 そして「善き人のためのソナタ」とは、「ソナタ」のようなロジックとセンスの総合としての芸術が、「善き」を実現するための従属的なものということを示唆しているのではないだろうか。

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (1 人)Orpheus

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。