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[コメント] 楢山節考(1983/日)

村落共同体の生態が見事に体系付けられており、宗教との不即不離から浮かび上がる生殖における永続性と彼らの死生観。貧しいなりにもそこに農民達の誇りある生を提示する。
山ちゃん

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







緒形が母べえを捨てに行くくだりについていえば、その延々と果てしなく続く道のりは胚胎から出産の逆コースをたどっているようであり、そしてその魑魅魍魎と殺伐としたその終着地はいたるところに白骨化した死体が散漫し、それをカラスがあさる地獄絵図ではあるが、そのくだりで一度たりとも死体が見えなかったことからも農民たちの神道に対しての服従の精神が並々ならぬものであることがうかがえる。このようにとらえるとこれは山の神から生を受けたものが、山の神へ魂を帰属するように思われそこに農民たちの死生観がうかがえる。さらにこの姨捨行為の前に村単位での儀式が丁寧に行われており、それを観るにつけても農民らの神道が一見親への忠義を旨とする儒教が日本へ伝えられ朱子学となりそのルーツをもつ武士道と一見正反対のように思われるのであるが、母べえが、自分が山へ捨てられる前に息子および嫁たちに教えることは全て教え、全てをやりつくした感をみせて、さあ山へ行こうと自ら進み出る姿は、武士でいえば切腹前まで身なりを整え丁寧に首を洗ってから斬首される姿、つまり日本人らしい潔さ、最後の最後まで誇りを失わない潔さが共通点として見出せ興味深い。

さらに神道と村落共同体との不即不離であることに視座を据えれば、それはやはり極寒の凍える厳しい環境で貧しくしかも無教養であるが故、この神道から彼ら無教養な農民たちは、道徳を学び、その神への服従という彼らの共通の礎のもとに共同体の秩序維持、一体化を働かせるところにこの宗教が役割を果たす。そこがたとえ無教養であるとはいえ、なりふりかまわずずるがしこく秩序を守らない何某の人種と明確に一線をひくところであろうしそれが今日の日本が形作られた一因であろう。ところが、その神道に関して、例えば倍賞の村の男総めぐり夜這いにいたって醜怪たるとんぺえを飛ばしたことにそれを神へ許しをこうたところ、倍賞を免罪するかのようにチョウがふらふらとまいおりたとか、秩序を乱し貴重な作物を盗み出した者を家単位で神への冒涜であるとしてまるごと生き埋めにするといった残酷極まりない仕打ちに至ってもそこに神を口実に利用する、人間の恣意的な解釈が垣間見え、ここに今村の宗教に対しての批判精神がうかがえる。

さらに、母べえを基軸点とする生殖の永続性への追求が描かれている。それは母べえが息子3兄弟に対して及ぼした作用からも伺え、緒形に対しては隣村から嫁を差し出してまで子孫を絶やすなというテーゼがこめられているし、倉崎に至ってはその嫁が胚胎しているにもかかわらずその嫁・子ともども、盗人の血筋をひいているが故優生学的に排除させるという情け無用の蛮行にいたり、さらに結合相手不在の醜怪たるとんぺえに至っては、母べえ自ら仲介役を買って出て老婆虹川を性交相手に差し出すといったこの強引さからもやはり生殖における永続性がみられる。終盤には、緒形が姨捨を終え床に就いたときにみせる竹城、倉崎の新嫁の胚胎を示唆したシーンがあるが、これをみるにつけても生殖の永続性がこの映画の要であり、そこには、生あるものはいずれは新たに宿った生のためにもこの世から姿を消さないといけないという必然性も見えてくる。人間は永遠でありたいとはよく言われるがそれは子孫を残すもっと還元的に言えば遺伝子を残すことで永続性を求めるのであろう。さらに繰り返しになるが全編を統括して例えば倉崎の嫁殺しを仕向けたことからも母べえにとっては家単位の永続性だけではなくて村落の永続性をも求めるというこの二重の永続性が見出せる。以上こうして咀嚼すれば姨捨が恥文化かどうかはもはやいうまでもなく今までの農民らのこうした並々ならぬ精神を鑑みれば今までの常識が覆させられる。これを誇りある生といわずして何という?見事な映画である。

(評価:★5)

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