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[コメント] バクマン。(2014/日)

傑作と思う。小松菜奈が退学する場面がまず異様だ。退学することを伝える教師の声がオフで示され、教室の全景を捉えたショットが存在せず、佐藤健とのショットの切り返しのみで構成されている。こうした全景ショットの不在は多くの場面で顕著であり、例えばジャンプを読む読者たちを捉えていく繋ぎや連載・読み切りの掲載の報せを携帯で受け取る漫画家たちの繋ぎ、回想の中の葬式などでもそうである。
赤い戦車

 回想上の葬式の場面などは佐藤(の子役)の寄りとリリー・フランキーがレインコートを着て何やら式場の交通整理か何かをやっているショットの切り返しのみで構成されている。何をやっているのか掴めなくともいい、という姿勢が不可解である。普通、こういうことは絶対にやらない。やる場合は必ず作り手側の演出意図が込められている。それでは何故こういうことをしたのか。

 一見すると本作の繋ぎは軽快な音楽に乗せたTV的なダイジェスト編集に見えるかもしれないが、これは決して「TV的」なるものではない。何故なら、TV的なダイジェストとは結果を連ねていくものだからだ。結果A→結果B→結果Cと出来事のあった時、本作においては結果たる「A」「B」「C」(劇中であれほど主人公らが熱望した手塚賞。その発表は描かれず、授賞式の途中から始まる)は省略され、過程である「→」の行為(各々が漫画を描く際の、ペンを走らせる身体的アクション)のみが連なっていく。TV的な説明のための繋ぎ「A」「B」「C」ではなく、「→」を連ねた編集をすること。

 また、体育館の2階から神木の視線の動きによって繋がれる学生たちの描写はどうだろうか。ここでも場所や風景の説明のために全景ショットを拵えることは無く、一人ひとりの学生生活の営みが捉えられていく。そこには単なる物語上の人物造形などを超えた、役者と役柄とが合わさった一つの人生の瞬間的な断面が宿ってはいやしないだろうか。ネット喫茶に寝ころびジャンプを読む読者。アルバイトの途中に掲載の報せを受け取り喜ぶ漫画家たち。そうした各々の人生のいち瞬間があり、さらにそれらの瞬間(=「→」)を連ねていくからこそ描写に躍動感が生まれているわけだ。

 場所や風景や結果などの説明はいらない、人間こそが重要だと大根仁は訴えかける。劇中で山田孝之演じる編集者が「キャラクターで物語が進行しなければならない」と言う。物語がキャラクターの動きを定めるのではなく、キャラクターの動きが物語を紡ぐこと。作り手側からすれば、キャラクターに見かけ以上の生命を宿させたい。その試みは、例えば各人の書き記す音を強調し、染谷将太など各人によって音を使い分けることで身体性の画面の定着に努める姿勢として画面に表れるだろう。

 漫画を描くこと=身体的アクションを通して、キャラクターたちの人生のいち瞬間にフォーカスを絞り、それらを連ね、世界の一部としてそのままリアルに捉えること。それは、映画の一つの理想形ではないだろうか?私は本作での大根仁の姿勢に大いに共感を覚える。

神木隆之介のメガネに浮かぶ構想や壁を這う画、或は格闘のイメージシーンなど予算が的確に使われ映画的な省略・盛り上げへと効果を挙げていることに対しても称賛したい。いささか野蛮ではあるにせよ。

・私の記憶が確かならば、病室で小松と会話する場面では、部屋の窓は閉まっていたはず(1カット入り口側から病室を捉えたショットがあった)。それなのに、小松の髪の毛やカーテンが揺れる。そこに本作スタッフの「映画」たろうとする意地が見えてこないだろうか。我々観客だってその意地に応えずにはいられないだろう。

・エンドクレジットの楽しいお洒落さも良い。こういう遊び心も映画には重要だ。

(評価:★4)

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