[コメント] 勝手にしやがれ(1959/仏)
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ベルモンドと友人、警察らとの「すれ違い」が繰り返し描かれているが、最終的にセバーグとの「すれ違い」が表面化することによって破滅を迎える事になるのが面白い。思えばベルモンドとセバーグは一見仲が良さそうではあったが、彼らの話がかみ合った試しはほぼなかったように思う。
こうした「すれ違い」は演出にも貫かれていて、例えば有名なジャンプカットやカッティング・イン・アクションによる空間・時間の「ずれ」として表れている。また、ミスマッチな音楽や台詞に被さるサイレンなど効果音の使い方もそうした演出の一部だろう。
本作を観た時に感じる瑞々しさ・可愛らしさはこうした「ずれ」のぎこちなさからくるものだ。特にラストの「まったく最低だ」は、男と女の永遠に分かり合えない「ずれ」が見事に表現されていて大いに気に入った部分。
ところで、本作(と60年代までの諸作品)が観客に対して「開かれた」世界になっているのに対し、どうも商業映画復帰後のこの人は老人の独り言めいた「閉じた」世界になっているように思われる。どちらが残るかは今後の映画史の裁定に委ねるとして、作風が変わってないのに何故こうも印象が違うのか。これに関する研究論文・批評があれば是非とも一読してみたいところです。
追記:開いた世界・閉じた世界という言葉は私の印象にしか過ぎないので分かりにくいと思いますが、具体例を挙げればジャームッシュやタランティーノが個人趣味満載で映画を撮っていながら「開いた」世界を感じさせるのに対し、最近の押井守が「閉じた」世界に移行しつつあるようでゴダールと同じ危機感を覚えるのです。更に宮崎駿の『ポニョ』は本来「閉じた」世界であるべきなのに開けっ放しなので非常に恐怖感がありました。
なんだか話が余計分かりにくくなった気がします。「勝手にしやがれ」とも論点が「ずれ」てきているので、この問題は別の機会にもう少し考えを纏めてから、それ相応の場所で論じたいと思います。
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