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[コメント] ダークナイト(2008/米)

見た瞬間、直覚的に“カオス”を感じた。20世紀の思想に見られるような、構造主義的な思索の結果ではなく、純直覚的に、である。しかし、後になってこの作品の構造を見返してみると、構造主義の“カオス”の理論と完全に一致が見られるのは非常に興味深い。この作品は5回ほど見ているが、回を重ねるにつれてこの念は強くなるばかりである。
かねぼう

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







はっきり言って、この作品は神がかっている。もはやジョーカーに至っては、神を越えている。

これは比喩であるが、単なる比喩には留まらない。

そもそも“神”とは何か?20世紀の偉大な思想家たちがもたらした構造主義的観点によれば、それは次のようなものとして説明できる。「“神”は、人類が秩序(構造)を作り上げる時に、その唯一の中心として制定されるものである。そして、それから発せられる“禁止の言葉”や“法”によって、人類は、自らの欲動を制御し、カオスに陥ることを防ぐことが出来るのである。」ここで忘れてはならないのは、人類がそもそも自然界(ピュシス)に適合した生物ではないという考えが根底にあることである。動物と人間を比較してみれば、これは了解するに難くない。というのも、次に述べる事が明らかであるからだ。すなわち、「動物は、ある対象に対して、自らの本能の方向に適した一つの意味しか持たないが、人間は、ある対象を考える時、自らの本能的な矢印が指し示す意味とは別に、あらぬ方向に向いた矢印(欲動の方向)が指し示す意味をその対象に読みこんでしまう。」つまり、人間は、各々の生物が一つの対象に持つ一つの矢印によって完結した体系として成り立っているエコシステムからはじき出された存在であり、もはや人間にとってピュシスはカオスそのものなのである。人間において、母は時に雌と化し(近親相姦)、他民族は時に殲滅の対象と化す(ジェノサイド)が、それらを私たちが構造によって制御しているというのは経験的に了解できるだろう。

私たちは、神を中心とする秩序(構造)を作り上げ、それによってカオス防いでいるのだ。もちろん、ここで言う“神”とは、単にキリスト教やイスラム教の神を言っているのではなく、もちろん、それらも含まれるのだが、あくまでも記号的なものであるのは言うまでもない。例えば象徴秩序が解体された現代では、それは貨幣であるだろう。ともかく、それは構造の中心である。

しかしこの作品の中で、ジョーカーは(実際に台詞としては言ってないものの)こう言ってのけるのである。「“神”など、ただの中心でしかない。」これは、およそ人類が感じうる戦慄の極限である。

思えば、これまでの全映画史において、“悪”は如何にぬるま湯の中にいたのだろうか?いや、“悪”と呼ばれてしまった時点で、そいつは“ぬるい”のだ。なぜならば、それは神による“禁止の言葉”と“法”の概念が適応される範疇に居るからである。そんな奴にはもはや先は見えているのだ。即ち、構造によって、俗っぽい言い方をすれば“正義”(と人類が、種の生存のためにしなければならない物)によって、いずれは押しつぶされるだろう、と。たとえ、映画の2時間という尺の中で、それが成し遂げられなかったとしても、である。

ジョーカーは、神、即ち構造を越えている。正にカオスだ。“神を否定した”のではない。否定するだけなら、そこらの悪党にも出来るのだ。問題は、存在として“神”を越えているかどうか、である。

“神”を越えているということは、人類が作り上げている脆き構造の外側に居るということだ。つまり、カオスである、という事である。ゴッサム・シティーを見てみよ!ジョーカーの登場によって、人々は完全に原初の状態に立ち返ってしまった。つまり、本能と欲動のカオスとしてである。バットマンは、ジョーカーの中に、デントの中に、そしてレイチェルの中に自身を読み込み、もはや構造の中でのみ与えられ得る“ヒーロー”という自己同一性を完全に崩壊させる。デントは正に構造とカオスを視覚的にも象徴する化け物と化し、それでも人間的な部分を捨て切れず、法的な構造を失った代償として、片面がつぶれたコインにすがり付く。警官ゴードンは正に職業人として描かれるが、ジョーカーに完全に利用され、碌に相手にもしてもらえない。悪党どもはジョーカーに接することで、戦慄し、自らが所詮構造の中に安住している“悪党”、或いは“大悪党”に過ぎないのだと知る。

 もはやこの作品は真に創造的な領域にある。つまり、この作品は、“善/悪”を真に浮き彫りにする試みに他ならない。“善/悪”について意見を述べた映画は腐るほどある。しかし、その様な映画は“善/悪”を全的に描くには至らないのである。赤色を“赤色”として存在させるためには、他の色が必要である。同様、実質的に“秩序・構造”という同じ尺度で測られている“善/悪”を描きだすためには、異なる尺度、即ち“秩序・構造”外の尺度が必要なのだ。ジョーカーはその尺度に他ならない。そしてこの作品は、“善/悪”を人間が作り出した矮小な概念として提示するのである。

 しかし、この作品はその様な構造を持ちつつも、人間が善意の生き物であるということを最終的な主張として持ってきている。この点は素直に感動せざるを得ない。矮小な“善/悪”という概念にすがってしか生きていくことの出来ない、不完全な人間を笑い飛ばしつつも、それでも彼らが“生きたい”と願っていることを、“人類が平和でありたい”と願っていることを、ラストで正に体現するのである(船の爆破の拒否)。

 私はこの作品のラストで、真の人間賛歌を見たような気がした。そしてこのような感動は、映画において私が初めて経験したものである。すでに5回ほど見ているが、この念は変わらない。

(評価:★5)

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