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[コメント] マーティ(1955/米)

だらだら見てしまえばお手軽な恋愛映画であるかもしれないが、実際には現実への透徹した視線で貫かれている、少し怖ろしい映画。特に、アーネスト・ボーグナインを選んだことは非常に巧妙である。
かねぼう

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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異色である。ハリウッドがこの時代にこのような映画を制作していたということが驚きである。確かに“マーティ”のような醜いという設定の男を主人公に据えて、彼に活躍をさせる作品などこれ以前にも沢山あるではないか、という意見はあるだろうが、もう少し繊細な視点で見れば、これは、例えば「ノートルダムのせむし男」とも、最近の例では「電車男」とも、完全に異なった存在であるということが分かるだろう。というのも、制作者が表現すべきは、“せむし”でも“オタク”でもなく、あくまでもマーティという一般的一個人だからである。

これは制作者にとっては困難かつ微妙なラインを要求したに違いない。制作者はこの場合、彼に“醜い”ことを積極的には期待しないからである。

例えば、せむし男や電車男のようなプロットにおいては、主人公は積極的に醜くなくてはならず、その“醜い”という要素は、主人公がラストに見せる逆転劇とのギャップを引き立て、さらに映画を盛り上げる効果を為すわけである。故にこれらの映画の場合、主人公には醜いメイキャップや、ダサい服装、髪型があてがわれる。そして、主人公のアイデンティティは“せむし” や“オタク”であるということ、つまり“醜くある”ということに置かれるわけである。

しかし、この「マーティ」のプロットの場合は、明らかにそこには主眼が置かれていない。なぜならば、多少結論めいた言い方をすれば、この映画はせむしやオタクのように“主体的な要素で自身を規定する人間”ではなく、むしろ、“環境に規定される人間”を描いているからである。

マーティ自身は、醜いことにアイデンティティを置かない。彼は、周囲から自身が“醜い”という印象を植え付けられているのである。(結婚をしつこく勧める母、相手にしてくれない女、何処か自身を下に見ている節のある友人)特に、母親や友人らは一見、マーティにとって心地よい人間であるかのように見えるが、実は、彼らはマーティにその“醜い”という印象を正に彼自身に押し付けていた張本人であった。その証拠として、マーティが女性と上手くいきそうになると、彼らは本性を現し、必死に彼らの仲に水を差そうとするではないか。そして、彼らが無意識に、マーティに醜いという役割を強制させていたというこの事実にこそ、この作品の悲劇がある。

そして以上のような場合、マーティはむしろ、多少極端なことを言えば、観客にとって、醜くなければ醜くないほど良いのである。なぜならば、マーティが醜くないことによって、まさに上で述べたような悲劇性が浮き彫りになるのだから。そして、これは制作陣が彼に特別なメイキャップを施さないことや、劇中のマーティ自身も、もし彼が現実にいたとするならば、とりわけ醜いという印象を与えることのないような身なりをしていることからも明らかである。

もちろん、いくらマーティが醜くない方が良いからと言って、正統的な美男子を使うのはさすがにいただけないであろう。そこまですれば、図式的には悲劇が強調されるかもしれないが、それは余りにも観客の感覚と離れているため、悲劇としてのリアリティを失ってしまう。この点において、この作品は制作陣に非常に繊細な感覚を要求するであろう。そして、僕はこう思うのである。「まさに、アーネスト・ボーグナインは適役であった」と。

この作品で描かれている悲劇は、恋愛以外の場面でも、個人を抑圧するものとして普遍的な図式を持っているように思われる。そして、お手軽な恋愛映画の風を装ってはいるが、この作品は、透徹した感性を以て、周囲の環境が無意識的に個人を抑圧する様子を見事に描き出している。

ラストで、マーティが周囲の抑圧を打ち破って、自身の幸せを獲得する事に成功するのは、まさに快感だ。そして、まさに美男子や美女のイメージを世間に浸透させ、世間の無意識的な美醜のヒエラルキーを助長していた張本人であろうハリウッドが、その被害者たるマーティのような人間に焦点を当てた作品として、この映画は非常に異質であると感じる。

(評価:★4)

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