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[コメント] ダウト あるカトリック学校で(2008/米)

本物の怪物は、見えないところから現われる。うだつの上がらなかった過去は、吹き飛んだ。監督の名は、ジョン・パトリック・シャンリー。
カズヒコ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







静かな街の一角に、その学校はある。豊かな自然に囲まれている以外には、目立ったところはなにもないその学校。古くもなく新しくもなく、大きくもなく小さくもない。教室では汚れをしらない新米シスターが、か細い声で生徒を嗜める。生徒と教員たちを統べる厳格なシスターは、そのポジションと能力ゆえに孤立を深めている。表面的には自由主義的な神父は、良き兄貴分のように画面には映るが、その影は計り知れない。あるとき、生活の重みを体現するような褐色の肌を持つ淑女が、その地に足を踏み入れた。

すべての役者が、己の役割を全うせんと画面に躍動する。「疑い」を原動力とした筋書きは、巧妙なだまし絵の連続であり、観客を否応なくジャッジメントのシーソーゲームへと動員する。最後まで持続される緊張感。ラストの重みといい、信じられない完成度をもった不朽の名作がここに生まれた。作品から導きだされるのは、「疑い」とは負の情念なのではなく、「交わりたい」という生物としての根源的な希求なのだという真理だ。

現代人からすれば、フィリップ・シーモア・ホフマン演じる神父は、どうしても「正義」に見えてしまう。今という時代は、とにかく抑圧を解放することが「良きこと」とされ、そうした自由を謳歌している時代だからだ。多少の揺れはあるが、ストーリー上の展開としても、ホフマンは「正義」として描かれ、彼有利に展開される。メリル・ストリープ演じるシスターは偏執狂まがいの勘違い女といわんばかりだ。

しかし、中盤以降からは小技をきかせながらだんだんと、彼に不利な情報が配置されていく。大きなストーリー上の変化が訪れるのは、黒人の生徒の母が呼び出されたときだ。そこで生徒の趣味が明かされる。そのとき観客は度肝を抜かれ、強いダウト(「疑い」)を抱かされるのだ。クライマックスの「対決」では、ホフマンの過去が明かされる。ここで彼は万事休すかと思いきや、首の皮一枚が残されて、ラストシーンへと繋がっていく。

結局、彼はやったのか、それともやっていないのか。シスターとの「対決」で認めたのは過去の過ちであり、当該の嫌疑についてはどちらともいえない、というのが穏当な回答なのだろう。ただし、意義深いヒントは残されている。それは伏線が配置されながらも不思議と回収されないで終わった、不良少年を映し撮った複数のショットである。ボールペンが発見された場所は不良少年の席であり、少年の吸っていたたばこは神父のものと同じ。なぜか、終盤の教会では少年がクロースアップされる。そういえば、神父は気に入った相手に「ちょっとしたプレゼント」をすることを慣例としているようなのだが…。

しかし、悪者探しはもはやどうでもよいのかもしれない。少なくとも神父は自由恋愛を支持する態度を見せていたのだし、自らが教会の制約のなかで断念してきたもの、それによって彼の悪癖が生み出されてしまったのかもしれず、しかしだからこそ、同じ轍を踏ませまいとして「寛容」であろうとしていたのだろうから。

舞台は、約50年前の教会だ。ここには厳格な制約による、厚い壁で区切られた2つの隔絶が存在していた。俗世間との隔絶、男女間の隔絶がそれである。神父には俗世間との隔絶がなかった。終盤で教会の檀上から降りたち、「扉を開けて」信者を握手を交わしたように、時代が要求する「開かれた教会」を先取りしていた。この点で彼は「自由」だった。しかし、もう一つの隔絶は決して埋められないものだったのだ。

ダウトは隔絶されたもの同士に発生する。隔絶を埋めようとするのがダウトであり、まさにダウトは連帯するチャンスだという冒頭の説法に回帰させられる。そのことを話す神父にもまた、ダウトは存在していたのだが。

(評価:★5)

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