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[コメント] サーカス(1928/米)

映画の転換期にあって映画表現に対する雑念が淡く漂うSO-SO作品
junojuna

 前年度にトーキー第一回作品『ジャズ・シンガー』が公開されており、これまでサイレントという制約の中で映画表現の先端を担ってきたチャップリンにプレッシャーが少なからずあったであろうことがこの作品に影を落としている。また映画史に燦然と輝く傑作『黄金狂時代』から3年が経過していること、撮影前に映画セットが暴風雨にさらされ破壊されるアクシデントや、撮りためたフィルムが現像ミスで使い物にならなくなるなど、こうした不運に見舞われた状況もこの映画を語る上で独特の意味合いが支配している。この時期にチャップリンがサーカスを、というより道化師をテーマとしたことは、チャップリン自身の芸に対する矜持が選ばせた運命的なものであったといえる。道化師の伝達手段とは身振りである。そして道化師の存在意義とは、恣意的に意味を付与しようとする能動存在である鑑賞者に対して常に受動存在としての媒体的役割を演じることである。それはある種言語に置き換えて定義できない不寛容な形而上現象を自らの存在を犠牲にしたイノセントな機能であると捉えることができ、チャップリンはその聖愚者としてのロールプレイングを自らの芸人信念と重ね合わせて表明しようとしたのではないかという憶測を呼び、ゆえに本作においてのチャーリーは頑なに言葉少なであり、自らに言い訳を禁じる内省的な人物像であり続けるところが一層の悲哀を浮き彫りにし、それはまさしく道化師であることの存在意義に通ずる深みをもって真に迫る。かような状況下からカウンター的なアクションの強度はより活発なものとなり、その点ではコミックアイデアの精錬は少々甘さも目立つが、スタティックに捉える人物情景のリリカルな描写力はより深化をみせて感動的である。孤独がより一層深く浮かび上がる静かなるチャーリー像は、小津が切り取る笠智衆に対するそれと同質の重厚さがあり、映画の本質は洋の東西を問わず、シークェンスに内在する抒情の汲み取りにこそ顕在すると得るとき、作家性が芸術を形成するのに寄与する技術的な施しこそが匠の誉れといえることの感慨は大きい。チャップリンは後年この自作について多くを語らなかった。時勢というものは常に現代的な有効性にのみ論を費やす。本作は映画に内在する発意という側面において、作品の体面的なレベルを越えた繊細な存在感に意義がある。

(評価:★3)

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