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DSCHさんのコメント: 点数順

★4スリー・ビルボード(2017/米=英)世界には不条理と怒りが溢れている。その己の中の「怒り」を、ないことにするでもなく、捻じ曲げるでもなく、忘却するでもなく、あるがままに、飲み込み、「付き合っていく」。どんなに苦しく滑稽なあがきでも、望んだ結果を得られなくとも、そう生きていくほかない、ということか。 真摯な達観に至るロックウェルの表情が絶妙。 [review][投票(6)]
★4スペース カウボーイ(2000/米)映画にとって、「本当らしいことは少しも重要ではない」ということを教えてくれる(けしからぬ宇宙空間の音の扱い。だがそれがいい)。もちろん別の映画の使命があることも承知だが、これは純粋に愉しい映画。死に伍するにあたりユーモアを持ち出す映画に弱い私は、晴れやかな表情で憎まれ口を叩き合うクソジジイどもに憧憬を禁じ得ない。信頼の裏返しであり、年輪の証であり、悟りである。 [review][投票(6)]
★4ゾンビ(1978/米=伊)「生きている死者」なのか、「死んだように生きる生者」なのか。曖昧になった境界からの目覚め(dawn)。zombieという邦題ではこの主題が見失われてしまうだろう。これはliving dead「生ける屍」の物語である。印象に残ったのは痛々しく冷え切った男女関係。生ける屍になりたくない女と、生ける屍になった男。 [review][投票(6)]
★4哀しき獣(2010/韓国)延吉(中国)の朝鮮族街と、密入国の窓口となる韓国の場末では、殆ど街の色に違いはない。その近接感に関わらず、濃い「遠くに来ちまった」感。それは後戻りできない物語を高速カット割で煽って運び去るスタイルが的確な上、朝鮮族による、「民族/国家」の近いようで遠い、憎悪と羨望の微妙な距離認識を正確に演出に投影しているからだ。その距離のゼロ化=越境・接近が喰らい合いに至るしかない悲劇。凍えて飢えた画面も◯。 [review][投票(6)]
★4ゴッドファーザーPARTII(1974/米)劇中に描かれるマイケルはほとんど食事を口にしない。逆説的に、これは食卓の映画だと言っていい。また、これは第一義的に「影」の映画である。深度を増して黒々と沈んだシルエットで語るコッポラウィリス)の画は、全ての人間が亡きヴィト像を通して投げかけられる影であることを示す。ヴィトの幻影(時代の名残)を懐かしみ、そのことによって苦しめられる、「影」として在ることしかできない「こどもたち」。 [review][投票(6)]
★4英国王のスピーチ(2010/英=豪)風土的歴史的素地の相違は脇に置いて、単純に、ちょっと特殊なだけの小さな物語として観た私は完全にやられた。主演3人の鉄壁布陣の滋味深い応酬だけでも鼻血が出る。劇伴の反則技にも目を瞑る。「セラピー」を意識したカメラなどの小技も奏功。何より嬉し恥ずかしなヘレナファースの交歓に理性が崩壊。 [review][投票(6)]
★4戦場のピアニスト(2002/英=独=仏=ポーランド)「音」に生きるしかないシュピルマンの過敏な「耳」に寄り添って観れば、戦争は人間的な音が歪められ、拡大され、遮断され、最後には死滅する風景として捉えられる。音が死にゆく過程の描写は「恐怖のミュージカル」。そして、音が、つまり生命が死んだ世界に抗うように響く「最後の音楽」。この状況下で、打算に基づいて感動することなど出来やしない。 [review][投票(6)]
★4戦場のメリークリスマス(1983/英=日)「菊」に対置される「赤いハイビスカス」。「恥」と「誇り」。「神道」と「キリスト教」。象徴と象徴のせめぎ合いを暗示する数々の要素を負うという意味において、演技の巧拙は措いても、アイドル(偶像)のキャスティングが必要不可欠だったのだろう。ヨノイの「よろめき」をセクシャルな面だけで捉えてはならない。 [review][投票(5)]
★4JUNK HEAD(2017/日)「ヌルヌル」、「グチュグチュ」「ザラザラ」、「ブヨブヨ」・・・優れたストップモーションアニメが全てそうであるように、「触覚」の描写が素晴らしい。その偏執は物語ともマッチしている。無機的な世界に対比される、グロテスクながら生き生きした有機物の際立つ生(性)の本能、その手触り。贅沢な彫琢がされた地獄で遊ぶ。これも一つの映画的天国。三バカのフィギュア欲しい。 [review][投票(5)]
★4仁義なき戦い 広島死闘編(1973/日)肉と酒とタバコしか喰らってないのだろうなあ、という男のギラつきが物凄く、画面のエネルギーは前作をも凌ぐが、テーマ性も前作があってこそ、本作ならではのものがある。文太が後景にいるのは、物足りなさではなく、こういう味わいと感じるべき。戦後のイエ的悲劇から個人主義へ。これも一つの日本。 [review][投票(5)]
★4セトウツミ(2016/日)臆病な二人、「流れ」と「沈殿」の映画。オモロいというよりも切ない、ほとんど恋愛映画。他愛ないような見た目と裏腹に引き締まった会話劇の機微と相まって、交わされ、外される視線の演出がとてもスリリングだが、ここまで切なくする必要があったのかとも思う。 [review][投票(5)]
★4アギーレ 神の怒り(1972/独)下流を虚ろな目で見つめ、ぼんやり、ゆっくり、確実に死んでいく人間たちと対照的に、アギーレは流れの先ではなく、むしろギラついた目で上流を睨み続ける。帰りたい人間たちが上流へ、アギーレが下流へ意識を向けるのが自然だろうが、この逆転こそがミソ。静寂の中、「流れ」と「視線」の方向性が、「神への叛逆」を饒舌に物語る。 [review][投票(5)]
★4ヘイトフル・エイト(2015/米)実にヘイトフル。歴史に沈潜した憎悪に作用され、疑心と殺意が濃縮されゆく会話劇の「言葉の暴力」が、行くとこまで行った感があって凄まじい。白も黒も、嘘と赤い血に沈む上でしか和音を奏でることはしないという、ピアノの鍵盤と不協和音混じりの「聖しこの夜」が示唆する恐るべき「アメリカ的」帰結。文学的な前のめり感がかなり強いが、相応の旨みと凄みが出た。にしてもタラ先生の最近の荒ぶり方は一体何なのだろう。 [review][投票(5)]
★4その男、凶暴につき(1989/日)ギャグと恐怖の境界線で暴力を爪先立ちさせる無敵の手腕を感じさせる。わずかに(ここ重要)不気味なコント寄りの前半から真性の暴力に至る後半への匙加減の繊細さと危うさに鼓動が早くなる。生きたいでも死にたいでも殺したいでも殺されたいでもない、あるいはそれら全てのような、濃密な空虚の気分。逆光で武を捉えるカメラの禍々しさには黒沢清もビックリだろう。[投票(5)]
★4パンズ・ラビリンス(2006/メキシコ=スペイン)「真・『トトロ』」のような趣さえある。地上と地下、生と死、光と闇、安息と苦痛といったあらゆる境界線上、つまり「世界の中心」で振り子のように揺れつつ爪先立ちする物語。その「危うさ」が現実と幻想を巻き込む「迷宮」というモチーフと相即不離で、重層性の見応えが半端ない。「危うさ」こそ世界と思うが、人の親になった今は傾き迷わないように支えることが責務だと、暗鬱な展開と裏腹に背筋が伸びた。演出も切れ味鋭い。[投票(5)]
★4ローズマリーの赤ちゃん(1968/米)「侵入」そして「つわり」の映画。現代都市を密室・聖域の集積の完成形と解釈するなら、この気色悪さはやはり都市に生きる我々だから感じるものだ。隔てる壁を超え、部屋という空間のみならず、五感、果ては胎内まで「侵入」する他者。そして他者の密室・聖域に取り込まれる。恐怖というよりも、嫌悪感。共同体によるレイプ。精緻過ぎるポランスキーの技に次第に吐き気を催してくる。ホラーというカテゴライズには若干疑問符。 [review][投票(5)]
★4チェイサー(2008/韓国)テーマからしてポン・ジュノを仰いでいるのは明らかだが、本家に二、三歩及ばず、欠落の穴埋めを既製品のトレースや虚仮おどしに逃げた感も一部否めない。しかし、暴力の様態を極力「打撃」に徹底して「無常と怒り」を文字通り叩きつける演出は明快で正確。暴力のグロテスクなユーモア感も時に本家を凌ぐ。「接近戦」の映画。 [review][投票(5)]
★4ぼくのエリ 200歳の少女(2008/スウェーデン)およそ説明のつかない、あらゆる意味付けや価値観・倫理感を超越して他者の理解を寄せ付けない排他的な「理解」こそ「愛」と呼びうる局面があるのであって、その観察の的確な実践と言える。字義通りの空腹のみならず、殺意、孤独、あらゆる「飢え」が表出する。それを「みたす」ことへの二律背反する感情。作品内で展開される「行為」の全てが深く、見応えがある。 [review][投票(5)]
★4ドッグヴィル(2003/デンマーク=スウェーデン=仏=ノルウェー=オランダ=フィンランド=独=伊=日=米)グレースも観客も断罪カタルシスを感じた時点で、み〜んな全敗。でもごめんなさい。こんな罰当たりな映画ばかり、正しいと思ってしまうのです。(更にちょっと加筆) [review][投票(5)]
★4ノック 終末の訪問者(2023/米)終わった時にスリラーを飛び越して「良いものを観ていたのだ」と気が付いて驚いた。原作が良いのかもしれないが、強迫観念的に物語を説明しひっくり返しにくるシャマランも、寓意の余白を残して冷静に踏ん張ったと思う。抑制の利いたバウティスタさんにも加点。 [review][投票(4)]