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[コメント] リンダ リンダ リンダ(2005/日)

「意味なんてないよ」。さりとて「無為の日々」ではない。でも「青春」が共同幻想だということも知っていて、その暗黙の了解が最強に生きる「学園祭」という場で共闘を無理矢理成立させるヒネくれぶり。それでも即席高校生ガールズバンドのブルーハーツで突破されたいと思ったのは何より監督本人だろう。本当はこんな言説で凝り固まった頭を「うるせえよ!この能書ネクラ野郎!」とひっぱたいて欲しいんだと思う。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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スレにスレていつも口の片端だけ上げて笑ってる印象の強いオトナ、山下敦弘

冒頭の学園祭プロモ(?)の撮影シーンの歯の浮くような稚拙やら「告白」シークエンスやら、ディスコミュニケーションをキーとしてそれこそ「冷水」をぶっかけるようなシーンが横溢している。ピンクのエプロンやトイレのシークエンスの積み上げられたトイレットペーパーとか、リアリズムを超えて「青春」への悪意にしか思えない。「青いな、意味なんてないのにさ、カッコ悪ぃ、バッカでぇ」みたいな。でも口の片端だけ笑ってる。

登場人物はほぼ一貫して自分の話しかしないし、お互いの顔を正対しまっすぐに見て話す機会など数えるほどしかない。もしくは何らかの理由でまっすぐなコミュケーションは「阻まれる」か、意識的に「壊される」。自意識が自意識のまま明るく閉塞している。こころが通じ合っているようで、まったく通じていないが、それを本気で問題にするでもなく、何となく喧嘩したり、無理矢理仲良くしたりする。ガチでコミュニケーションすることへの「勇気の欠如」というべきか。そういったものへの諦観が見え隠れする。「ったく仕方ねえな」みたいな。でも口の片端だけ笑ってる。

それは現代的感覚として私などは痛切にやるせない気分(つーか後悔)で共有してしまうのだが、この感覚の露出は本作ではその「欠如」の善悪の断罪といったベクトルには向かない。詠嘆をベースにした説教じみた湿っぽさがあるわけでもない(これだと最悪の映画になる)。あるがままの感覚として、その突破実験としての「ブルーハーツ」「学園祭」なのだろう。

それでも冒頭に述べたように、「青春」が共同幻想であることも「残念ながら」監督はきっと知っているのだ。「ブルーハーツ」も、もしかしたら幻想かもしれない。こんな時代に、直球コミュニケーションの「ブルーハーツ」は「蛮勇」かもしれないのだ。

それが「蛮勇」であると理解してもなお、彼らに「ブルーハーツ」を挑ませるのは、監督の「期待」なのだろう。監督はきっと「信じたい」のだ。ディスコミュニケーションの壁にもやもやして「ブルーハーツ」に涙するペ・ドゥナの描写には嘘はないし、それぞれがそれぞれのコミュニケーション不全を抱えた4人のセッションが初めて成功し、つたないながらも力強く透明なサウンドが青空に吸い込まれていく様の美しさには衒いは一切ない。トイレのシーンの意思疎通もハッタリギリギリだが、ここは「信じたい」と思う。

「信じにくいけど信じたい」という監督の視線がとらえる4人組の「勇姿」に心の底から打たれる。「信じろ!」じゃないんだよな。あくまで「信じたい」んだよな。笑ってる口の片端の角度、ちょっと優しい微妙な角度なのだ。スレちゃったオトナのための青春物語。この感覚が丁度良く辛辣かつ真摯で心地いい、っていうか有り体に言うと、ぽろっと涙が出た、つーか正直言うと結構泣いた。

・・・まあペ・ドゥナがぱたぱた夜の校舎を走ってあげくの果てにブルーハーツだから俺たちは鼻血、っていう話でもいいんですけどね。っていうか主役4人とも超いいです。でもここは敢えて仏頂面ベースの関根史織に軍配を上げたい。

(評価:★4)

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