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[コメント] 隠された記憶(2005/仏=オーストリア=独=伊)

嘘とトラウマが炙り出され、関係性の仮面を破壊される時、崩壊状態こそが「日常」となる。しかしそのささくれた自覚に立たされた上で、再び「監視」されたまま「平穏な日常」に差し戻される地獄。「視る」という暴力へのサド的快感の共有と、「視られる」ことへの「疚しさ・罪悪感」に起因する嫌悪を観る者に同時に強いる定点カメラのサディスティック。逃がすまいと観る者を絡め取るハネケの加虐趣味的シミュレーション。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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害を加える相手の苛立ち、疚しさにつけ込み、被害者自らの行動が己の足を絡め取っていくように「契機」だけを与え続ける。ハネケは『ファニーゲーム』以外未見だが、「犯人」の立ち回り方には共通項がある。ただ『ファニーゲーム』での最終的な加害の結果は「直接的」だったが、本作で事態を悪化させるのは決定的に主人公の疚しさから来る行動・言動で、「犯人」が実際に手を下しているかというと、必ずしもそうではない。いかにも人心を弄ぶことに長けた「犯人(ハネケ)」らしいゲーム感覚である。逃げ場のないエレベータの無言の長回しなども手に嫌な汗をかく。逃げ場がない、という意味では定点カメラ。当然これも然りで、自分も視られているという錯覚のもとに前述の苦痛を観る者に強いる意図があることは明白である。

主人公がラスト、カーテンを閉めて真っ暗な自室に引き籠もるが、紛れもなくこれは「視線の遮断」であって、ほとんど関係性=社会との断絶を意味する。彼はゆるやかに死んでいく。人目を忍ぶようになり、交友関係も自ら少しずつ断ち切っていく。最終的に寝室のシークエンスの時点で彼はほとんど社会的に死んだわけだ。この「ほとんど」というのがミソであって、疚しさと罪悪感に苛まれた「崩壊した日常」を強いられることは地獄以外の何物でもない。しかも彼はテレビに出演する身であり、父であり、文芸評論家として「発信」し「視線にさらされる」ことが社会での身の持ち方の要件であるから、いずれカーテンを閉め切った部屋から出なければならない(自殺でもしない限りは)。

「犯人」は、アルジェリア人の自殺の現場で何もせずに狼狽する主人公を捉えた映像を”おそらく”握っている。おそらくこの「最後のテープ」が露出されることはなく、主人公はひたすら怯え暮らすことになる。ノドを裂かれたのはアルジェリア人でなくして主人公本人である。

”おそらく”と私は書いたが、あのシーンが「撮影」されていた確証などどこにもない訳で、定点のカメラワークから勝手に「犯人」の視線を共有しただけだ。そして、この時、私は監視者として、共犯者としてハネケに仕立てられたことに気づく。私にとってこの映画では「犯人」が誰であるか、というミステリー的興味はほとんど問題ではない(状況からして犯人はほぼ限定されてくる。もしくは「彼ら」でないとしても、映画の意味はまったく成立する)。また、「自省」への誘導や罪と罰の恐れよりも、また「監視の偏在」という恐怖よりも、ハネケの悪意によって「視線」を弄ばれる被虐的快感が先行してしまう。それはとにかく何にも先んじて、私には「映画的に愉しい」ことなのだ。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)寒山拾得[*] Orpheus おーい粗茶[*]

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