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[コメント] 冷たい雨に撃て、約束の銃弾を(2009/香港=仏)

アクションのギミックにこだわるだけでなく「記憶を喪った男に復讐の意味はあるのか?」というキャッチフレーズにもう少し目を向けてみる。「忘却は心を洗う石鹸なり」という言葉と、紛争・憎悪の螺旋、コステロの苦悩を重ねてみる。彼は本当は「忘れたい」のではないか?
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







こんな言葉がある。「忘却は心を洗う石鹸なり」。

出典が分からないので調べてみた。聖書の言葉なのかな?

・・・

忘却は心を洗う石鹸なり

過去は過ぎ去ったのである。思い患うは愚かなことである。未来はまだ来らないのである。心配するのは愚かなことである。結局悩む者は、過去を今に持ち越し、未来を今に持ち越し、今の幸福を想像の中で汚してしまうのであるから、そんな愚かなことはしないほうがよい。今を喜べ。過去を忘れよ。この忘却は貴方の人生を清める石鹸の働きをするのである。

・・・

私には分からないのである。世界各地で何世紀となく続けられている紛争の意味が。対立する利害、罪悪の歴史、人を殺し殺された数、それらの全てを伝える資料は消失するか意図的に隠され完全な情報は知る由もないが、それらの輪郭は知ることが出来る。それでもなお、私には分からないのである。それらを「忘れず」、続けなければならない理由が。

私は当事者でなく傍観者であるという逃れようのない事実がある。いつ当事者になるか分からないとはいえ、現実的に傍観者の身でアイデンティティの中に刷り込まれた憎悪を理解しようとすることすらおこがましいのかもしれないが、ジョン・レノンに心酔するほどのロマン主義も持ち合わせていないし、これといって信仰があるわけでもない私はそれでも、イスラエルやパレスチナのこと等を考える時にどうしてもこの言葉が浮かぶのである。

人を許す、許される、この根底には忘却がなくてはならない。

さて、映画の話である。コステロは身内を惨殺された苦しみと、己の内なる憎しみの強さへの戸惑い(すなわち「忘却への希求」)に引き裂かれているのではないか。私は前提として上記の考え方があるので、コステロが海辺の一瞬の安らぎ(まさに「今の幸福」)、或いはラストに見せる安堵は、復讐を果たしたことによる達成感というより、己の内なる憎しみを忘却したことによる「救われ、赦された魂」の表出であるように見える。アリディが「思い出す」ことは、「今の幸福」を「想像」で汚すことだ。「憎しみ」とは想像である。紛争において「憎しみ」は制度化され、想像される。仇敵を倒した直後のコステロの表情に「救い」は見られない。死者への手向けは叶った。しかし喪った家族、3人の男たちは戻らない。残るのは悲しみと怒りのみ。己のふるった暴力は新たな暴力を生み出すだろう。不毛な暴力の螺旋である。

死した者は戻らない。彼らを忘れることは出来ないが、しかし復讐についに救いはない。人には憎しみを忘れる勇気と決断が、必要なのではないだろうか。コステロの安らぎと苦しみに、そんな派手なことを考えてみたりするのである。

・・・そこまで考えなくても割と面白い映画だけどね。プロ同士なのになかなかタマが当たらないのは、敢えて当てないでごっこ遊びで愉しんでる図なんだよね。カッコ良いと思った方がいいのか笑った方がいいのか正直判断に苦しむけど・・・

(評価:★4)

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