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[コメント] 鉄男 THE BULLET MAN(2009/日)

鉄男』と『AKIRA』を足して2で割り、世紀末を経た21世紀初頭という今、実写版で(あわてて)リメイク・・・した感じ。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







憎悪と怒りによる変身を内包・肯定しつつ、抑制の都市を生きる。元祖より一歩踏み込んだ現代的悟りはあくまで正しいのだが、既視感が先行する軽さがある。老成という退行か、テーマが古びたのか。激震するカメラも寓意に直結しない箇所が散見され、被写体の輪郭の弱さも致命的。塚本が映ると俄然締まる辺りは流石というか寂しいというか。

映画版『AKIRA』との相似点が見受けられる。カタストロフのシーンはもちろんそうだが、憎悪と怒りの塊である「やつ」を我が身の「血(遺伝子)」に取り込みながら、「抑制」によって人間の姿に戻るアンソニーの姿は、怒りのままに力を抑制出来ずに滅びた鉄雄の「一粒の光」を祈るように握りしめる金田の姿(「鉄雄」は金田の一部となる)に重なる。

二者の違いは、金田は「鉄雄」を取り込むが、暴発の要素として秘められたそれはあくまで「可能性」であり、想定出来ない未来に不可避である一方で 再生の「力」にも転化しうるものであるのに対し、アンソニーが取り込み許容した「やつ」と「遺伝子」は怒りを引き金にして必ず爆発し、都市を破壊 する徹底的な「非生産性」ということである。金田と仲間達は破壊された都市を「鉄雄」を内包しつつ進み、アンソニーは「やつ」と「血」を内包しつつ破壊されなかった都市を歩んでいく。

本作におけるアンソニーの暴発。それは「可能性」ではなく抑制が利く上においては起こりえない。とはいえ、この憎悪に塗れた都市で怒りを肯定しながらこれを抑えつつ生きることは難しい。それを抑制するのは「愛」と「克己」、「生の実感」である。本作の諦観とセンチメンタル。『AKIRA』と自身の『鉄男』、そして世紀末を超えた今提示された本作。自らと世紀末的都市論とアナーキズムへの回答。現代的で良く分かるのだが、さて、言葉にすると妙に陳腐である。

この「陳腐さ」自体は責められる類いのものではない。勝負の場であるところの映像の衝撃が旧作を超えることが出来ていたか。やはり否である。残念なのは、ここには確信に満ち、徹底的に見せる、というかつてのエネルギーがないということなのだ。

心地よい不快と、不快な不快というものがある。映画という異次元への誘導は、三半規管や視覚の攪乱によって もたらされるものではないと思う。不快な不快。当たり前のようだが、それらのものは私を全く映画に没入させない。

要は映画であるなら、破壊的であればこそ、丁寧に紡がれたアクションを観たい。その辺、本作は寓意と状況を言葉で語りすぎる上、省略技法や撮影が 極めて雑である。しかもそれが想像力を喚起するといった目的から取られた技法ではないところが致命的だ。アクションに説明力がない。端的にそのアクションがほとんど「観えない」からだ。激震するカメラと過剰な説明は、説得力の欠如の言い訳としてこの目に映る。激情に任せた手ブ レはかえってだらしない。百歩譲って、ここまでブレながら 画面を構成する荒技に無理矢理感嘆してもいいが、残念である。

やはり、寓意というものは隠されたものであるべきで、それを汲み取るのは観るものの責任によるもので、要はアクションが面白いことが再前提であるべきではないのか。隠すべきものを隠さず、見せるべきものを見せず。これは演出家としての退行だろう。

(評価:★2)

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