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[コメント] デンデラ(2011/日)

因習の業の果て、冷炎の地獄(現世)に燃え上がる最後の炎。裁かれる「ヒト」、裁く「神」。血も涙もないカタストロフか、深遠なる神殺しのいずれに振れるかと期待を高める前半の構成は中々。境界を超越して真の闘士となる浅丘ルリ子の凛々しさもよい。秩序=倍賞美津子、破壊=草笛光子の寓意に溢れた対比的配置も効果的だが、だからこそ修羅としてのヒトと審判者の激突が不完全燃焼。神の見せ方が大人しすぎる。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







女性の尊厳、因習のグロテスク、貧しさ故の業、自然の厳しさといったテーマを読み取ることはたやすい。だからこそ、前文で理解していただけると思うが、私は「神と人修羅の激突」の撮り方に興味があって観に行った。ほとんどこれは「怪獣映画である」という前提で。さらに「怪獣」は「運命=神=契機」のメタファーであるという前提で。

具体的に言うと新井英樹の「ザ・ワールド・イズ・マイン」における巨大な「ヒグマドン」と「モン」の激突に相似した画を観たかったのである。隻眼の熊神と隻眼の老婆の対峙という設定も、より象徴的に観たかった。 ただ、そこは「老婆」という設定上アクション表現に無理があったのかもしれない。『13人の刺客』(脚本)でアクション演出にキレを見せた天願作品であっただけに、期待するなという方が無理と思った私の見方の誤りかもしれない。

制約を考慮してのことなのか、もともと意図的なものであったのか、むしろ子を失った母の哀しみを押し出す熊のたたずまいは、ヒトと同じレベルにある。実際的なサイズも拍子抜けするほど小さいし、カメラの捉え方も血まみれの牙や爪のアップ以外は実に「小さい」。より悪し様に言うと、ちょっと下手に見える箇所すらある(リアル、と表現した方が良いだろうが)。また、デンデラの住人は否応無しに「老婆」であり、結局のところ「修羅」ではない。刃物も火薬もない。そのリアル感にこそ物語の真価を見いだすべきなのだろうが、もっと寓話的にやるなら思い切ってはっちゃけて欲しいところであった。いまひとつ突き抜けない。ヒトが勝つにしろ、神が勝つにしろ、ね。

虚妄の死ではなく、血まみれの充実した死をもたらす意味で「荒ぶる救い」を体現する熊神、というのも個人的に結構熱い。志はA級で画面はB級、っていうのを観たかったなあ・・・何というか大変惜しい。いい題材だと思うのです。

ところで、「命」を再びあるべき形で燃やすため死地に入る、という設定は熱いが、ラストはかなり冷酷。「因習」や「業」を超越して「新しい土地」を目指した浅丘ルリ子の(おそらくの)死は、相当ペシミスティック。劇場周囲のお年寄りの皆さん(おそらくキャストがお目当て)は煮え切らない様子でした。煮え切らないのは後半に向けた前半のミスリードにキレがあったからでしょう。天願さん、結構意地悪?

(評価:★3)

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