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[コメント] ゼロ・ダーク・サーティ(2012/米)

誰かが与えられた「役割」の中で「ベストを尽くす」ことで、誰かが死ぬ。それがイスラムの自爆テロであるか、米の諜報作戦であるか、過ちであるか正しさであるかに関わらず。それが世界のシンプルな「機能」として終わらない様の残酷。何のための「ベスト」なのか。茫漠としてわからぬまま、何もかも間違っているような、正しいような・・・はっきりしているのは終わらない「機能」の正確さと個の隷従の悲劇のみ。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







序盤に拷問されて衰弱した捕虜が、次にテロがいつ起こるかを詰問されて、「・・・土曜日」「火曜日」「金曜日」と朦朧として呟き続けるシーンに震えた。どこまで証言に忠実なのだろうか。無意識に放たれた言葉が、永劫のテロ偏在を予言している。

何も終わらせられない。ビンラディン暗殺の報道があった時に感じたのは、この虚無を伴った感想だった。国家は常に個に憎しみを収斂させることを制度化してきたが、国家の枠組みで把握出来る限界を超えたかたちの憎しみが偏在し、何事も解決できなくなって久しい。ビンラディンが死んだところで、何も変わらない。個を超えた、国家でもない「機能」の息づきを感じるからだ。これを薄々感じつつも、国家は国家であるために個を用い、個は旧式の役割に隷従する。役割からは逃れられない。そこに歪みが生まれる。何のためのベストなのか。役割とは一体何なのか。国家が形骸化して、絶対的な善も悪も存在しないことが常識になった今、もう誰も、説得的に正しさ、誤りを語れない。それでも、機能として世界は続く。分からないままに、ベストを演じ続ける。その「ベスト」が結実するシールズの「技術と働き」、そのうつろな正確さ。そして、この歪みはアメリカ固有のものではない。

マヤとビンラディンの対面。語らぬ二つの個は何を語ったのか。そしてマヤの涙と孤独。映画は、個の悲劇と絶望・混乱の予感に忠実である。ラスト、マヤを乗せた航空機のパイロットは問いかける、「これから、どこに行くんだい?」と。マヤは答えられないし、我々も答えられないだろう。おそらく永久に。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)濡れ鼠 ぽんしゅう[*] けにろん[*]

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