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[コメント] 帰ってきたヒトラー(2015/独)

「ヒトラー」は既に身近だということよりも、SNS、YouTubeのメディア双方向性時代に、誰もが軽薄な「ゲッベルス」になり得るということの提示が、時勢を踏まえて優れているのではないか。 歴史的文脈も踏まえず「一理ある」とヒトラーに共鳴する悪意なき「発信者」の跳梁にゾッとさせられる。選んだ時にはもう遅い。歴史は既に死んだ、という暗い感慨が残る。
DSCH

**ネタバレ注意**
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グローバリゼーションの反動として極右が台頭する(彼らを選ぶ者が現れる)ことは、今世紀初頭から政治社会学上では確定的に予言されていたことであり、フランスの例を踏まえても、再来の土壌が整っていることについてこの映画で驚くには値しない。

しかし本作で一歩進んだのは、SNS、YouTubeといったトップダウンではない発信ツールの恐ろしさの提示だと思う。

宣伝相ゲッベルスは、プロパガンダのツールとして、新聞の時代からラジオの時代へと移行したとして、ラジオ普及の政策を推進したという。手段は卑俗でも大衆に支持さえ得れば良い。「ツール」の変遷は、ラジオの時代からテレビの時代を経て、インターネット時代に突入した。この中で注目すべきはメディアの双方向化である。トップダウンのプロパガンダは古い(かの半島の北はそうでもないかもしれないが)。その動きは目覚ましく、言うまでもなくその象徴がSNS、動画配信である。誰もが発信し、「いいね!」できる。数字さえ得られればよいという承認欲求のゾンビがテレビだけでなくSNSにも跋扈する。本作はこの潮流と極右台頭の最も望ましくない関係をうまく戯画化している。

この映画でのヒトラーのスター化はテレビを発端としていて、ヒトラーにリーフェンシュタールと名指しされる局長はゲッベルス女史とも揶揄されるのだが、テレビの影響力という意味ではさほど大きくない。背中を少し押しただけであり、一理あると持ち上げるSNSの投稿の拡散力が決定打になっているのだ。

インテルネッツ(笑)を目の当たりにして感涙するヒトラー。再来を神意とする一つの理由だ。これは確かに神(悪魔)の恩寵であるだろう。宣伝相が世界には無数にいるのだから。彼は少し背中を押せば良い。そうすれば、拡散した彼らが「ヒトラー」を選ぶだろう。

もちろん、インテルネッツ(笑)は諸刃の剣であるべきはずであり、反駁の土壌も培われるべきでなければならない。この点について本作はあまり多くを語らない。この点が弱いように思う。が、本作の意図としてはあまり重要なことではないように思う。

犬が殺されるのは見るに忍びないが、排斥理論には平然としている。この「小市民的感覚」のグロテスクへの揶揄が鋭い。「選んだのは君達だ。選挙を否定するかね?」という問いにも瞑目するばかり。ほとんど笑えない、苦い映画だと思う。

なお、劇伴は『時計じかけのオレンジ』を彷彿とさせるシンセのベートーベン引用がある。メディアによる「刷り込み」という点を想起させる狙いがあるのだと思われる。

(評価:★4)

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