コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] ゴッドファーザー(1972/米)

眼窩に影を落とすライティングが非常識と当時言われたそうですが、演出の必然性を考慮せずにそんなことを言い放った方に「あなたこそ非常識です」と言ってあげたい。オープニングの完成度だけでご飯何杯でもいける。「ファミリー」という言葉を前に、善悪・聖邪は境界線を失い、ついに一つに重なりあう。その描写が極めてフラットでドライであることの凄み。その分、単純な好みとして、ニーノ・ロータはやや過剰に思う。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







導入の演出が全てを語っている。

闇に閉ざされた密室で滔々と語る葬儀屋のアップショットと、それに耳を傾ける人間。ふと反射的に連想されるのが、「告解」という言葉。しかし、徐々に引くカメラが、司祭でない人間、ヴィト・コルレオーネをとらえた時、罪を請け負い、対価を力とし、また罪を請け負うことで父・神であり続けた男と、神になれなかった男の物語が始まる。

ヴィトのオフィスと結婚式の明暗のギャップ演出が素晴らしい。一族の栄華は「血」に支えられているのだ、ということを一瞬で語り尽くしている(着想は黒澤明らしいですが、こちらは未見です)。闇が光を支え、光が闇を支えている。光と闇が相互に補完し合っている関係を示唆する場面の錯綜が、この場に留まらず、以降の画面にも完璧な深みを与えている。さらに、それを断罪も肯定もしない、フラットでドライな演出の凄み。

生きること、守ることの痛みとジレンマを極端に体現したヴィトの造形。このコンセプトを引き継ぎ、善悪・聖邪が凄絶にせめぎあい、ついには一つに重なり合う終盤の洗礼―粛正シーンは、やはり語り継がれるべきシーンだろう。粛正されるベガスの男が「血の涙を流す」なんてシーンも垂涎。

ヴィトのオフィスのシークエンスが「告解」に見える、ということを述べたが、あのオフィスが一種の神聖な場であるというのは極論だろうか。「穢れた聖職者」もしくは「聖なる罪人」として、無数の依頼者達の欲望を代理し続けることで「ファミリー」を築き上げたヴィトの倦怠感は、単なる老いに由来するものではないだろう。浴びた返り血、対面した欲望が、多すぎたのだ。

代理の返り血を浴び続けたヴィトの倦怠を体現するブランドの会心の演技と演出。眼窩の影が、あまりにも多くを語る・・・というか、場合によるけど、眼窩には影が落ちてなきゃいけないもんだと思う。

脱線:名を与えるというのは、やはり一大事なんだな。私は、ナウシカ原作で巨神兵に名を与えるナウシカのことを考えていました・・・ズレてる?いや、ズレてはいないつもりです。                                           

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (7 人)たろ[*] ALOHA[*] サイモン64[*] ナム太郎[*] けにろん[*] 煽尼采 緑雨[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。