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[コメント] バック・トゥ・ザ・フューチャー(1985/米)

過去への愛着を「あーあ、昔は良かったな」と年寄り臭く耽溺するためのものでなく、現在(いま)と未来を輝かせることにつなげるパワーとして、活劇・設定・ネタに必然性をもって結びつける手際の鮮やかさ。何しろ題名が素晴らしい。元気な映画。誠実で元気な映画なんて、世紀末以降はほとんど観たことない。俺たちは「元気であること」に疑い深くなってしまったんだな。あーあ、昔は良かったな、なんて。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







半ば自らと隔絶されたファンタジーといった印象にすらなりかねない凡百の「懐古系映画」(?)と異なり、自らを取り巻く過去と未来があり、父と母そして自分とその子どもが存在するという歴史の実感と、「クソッタレな現代」というところに立ち戻らず現代と未来を再び輝かす、というスケールのデカさと若々しさが一つ屋根の下に詰め込まれ、破綻がない。さらに、まさにその若々しさによって展開される青臭く、しかもミニマムなくせに面白過ぎるプレッピーかつスペクタクルなせめぎあいの必然性。

性欲満々な両親の本性に辟易しつつ、それが身近に親しく感じられるときに、同時に遠かった過去と未来と現在の距離が近くなり、時代と時代がお互いに手をつないだ温かさと現実感をもってとらえられるようになる(SFという文法だからこそこの要素が滲むという要領のよさ!)。ドクとの擬似的な父子関係もまた新旧の絆の熱さが垣間見える。

時代とともに移ろうもの、移ろわず変わらないものに対する眼差しも風刺的でありながら優しい。そして優しい以前にただ面白くあろうとすること((ドクの薄毛、先生の禿頭!))。そして時代設定の的確性。例えば太古の昔に跳んだところで、ちっとも面白くないと思わせるところに、本作の物語性のミソがある。

こういった要素を「当然」言葉で語らない。言葉で語らず活劇で語るというのは、とりもなおさず「若い」ということそのものだ。

レトロ・アメリカの文化も私たちには遙か遠いものに感じられるはずのところ、懐かしく大切なものに感じさせる技量。「ジョニー・ビー・グッド」の興奮。

そしてここで大事なのは、「どうせ血塗られた歴史でしょ」とか後ろ向きに呟くことが、絶対に野暮だ、と確信させるところなのだ!

何が言いたいかというと、こういったテーマを映画が語ろうとすると最近はどうも活劇よりも「説教」になってしまうのが限りなく寂しいということなのだ。さらにこんなご時世なので、映画にあっけらかんと明るく振る舞われても「おい、それ嘘だろ、自分でそれ信じてないだろ」「浅いな」などと思ってしまう。この感覚は私が意地悪なだけかもしれないのだが、ここにある確信に満ちた「面白さ」「元気さ」に懐疑的であってはならないと、こんな私ですら思う。

未来のために「大事」に守っていくべき映画だ。未来に「なつかしい」と思える現在を残せるか。

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◎ ラーメンズのコントで題名は忘れたが(公演名は「STUDY」だったと思う)、小林賢太郎が「こどもの素朴な科学の夢と疑問」に答える「何とか未来館」の先生で、一生懸命こどもの夢を壊さないように立ち回ろうとするのに、片桐仁扮する未来館のマスコットキャラ(電球のかぶりもの)が現実的で悪意に満ちたチャチャを入れる、というものがあった。「タイムマシンは作れるの?」という質問に対して延々と不可能な理由を並べ立てた挙げ句に「1.21ジゴワットなんて単位はな・・・存在しねぇんだよ!(子ども泣く)」と吠えたりする。実は片桐は元夢想家の科学者で『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が大好きなのだが、破れた夢を現実主義で埋め合わせ自分を誤魔化している悲しさを小林に指摘され、心が氷解する。「好きなんでしょ、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』!」と小林にとどめを刺されて片桐が号泣するのだが、ここでちょっと私も涙が出そうになった。

◎「アインシュタイン」を乗せたリモコン操作のデロリアンが残す炎の軌跡。マーティとドクの一生懸命な合成感。この感じがやはり未だに嬉しいというのは私だけの感覚ではあるまい。

(評価:★5)

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