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[コメント] ビッグ・リボウスキ(1998/米)

何故「ボウリング」なのか。いや、「ボウリング」でなければ語れない物語。「人間のコメディ」によって、「湾岸後」、「イラク」を予言した物語。怪作。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ボウリングとは「ボール(砲丸)でピン(敵)を倒し(全滅させ)、そのスコアを競うゲーム」である。アプローチドットの形状は弾丸に酷似。繰り返し置かれるピンのシステムにのぞく「”敵”の再生産」というイメージ。そしてボールが向かう方向は必ず「一方通行」であること。思い込みと勘違いのドタバタが暴力とセックスに帰結する物語にボウリング、ベトナム、湾岸のイメージが重なる時、峻烈なアメリカ揶揄が物語を一気に貫く。

アメリカには「敵」と「ジョンソンを突っ込む相手」が必要なのだ。ビッグ・リボウスキの「真の男とは何か」という問いに対し、「真に正しいことを為すもの(それを盲信するもの)」そして「睾丸(タマ)」という回答で返すコーエン。ボウリングボール=砲丸=睾丸(タマ)。

・・・が、凄惨な批判的風景をあくまでコメディにまとめる手際に脱帽するしかない。

度々挿入される「ベトナム」と「湾岸」のイメージだが、ウォルター(グッドマン)に言わしめるように、「ベトナム」が一対一の対面歩兵戦(接近戦)で、「湾岸」は装甲戦車や爆撃機という安全圏内からの一方的砲撃戦という風景に象徴されるとするなら、前者は双方向コミュニケーションの顕れでかつ敗北であり、後者はその敗北のトラウマと反動に基づく一方的なコミュニケーション(没コミュ)の顕れでかつ(表面上は)勝利であったことになる。アメリカは手ひどく痛めつけられ後悔したベトナム以後、それでも「お相手」「敵」を欲したのだ。しかしそれは従来とは違ったやり方に基づくものだった。

物語は「ベトナム後」(双方向コミュの敗北後)であり、「湾岸のさなか」(一方的コミュ=没コミュの隆盛)で展開される。登場する変態達の誰もが誰の話も聞かず、一方的な勘違いと思い込みが苛立ちの中で暴力とセックスという安直な結論に落とし込まれる。それが事態を悪化させ、またどういうわけか突然事態を好転させる。終始この姿勢は一貫している。作中冒頭でことわりがあるように、「ベトナム後」と「湾岸のさなか」であるという時代設定の必然性を見逃すと、奇人変人の大乱舞というだけのお話になってしまう。その見方は決定的につまらない。本当に関係ないなら「ベトナムが何の関係があるんだよ!」なんて連呼させたりしないだろう。

これは双方向コミュの死と没コミュの隆盛の到来を予言したものであり、「この時代にふさわしいドタバタとは何か」という追求の試みとして見てみよう。

相手に寄り添って人の話を聞いているものなど誰もいない。リボウスキは暖炉の 前で独りごち、その娘(ムーア)はデュード(ブリッジス)の姿勢はお構いなくまくしたて、デュードの同意などは関係ない「妊娠」を望む。デュードを取り調べる警察官は早々に取り調べを放棄して暴力を振るい、ラリーは腑抜けた表情のまま一言も言葉を発することなく、秘書ブラント(ホフマン)は軽佻浮薄な笑みの仮面をかぶり、大家は観客不在の劇場で意味不明な踊りを披露する。まともに成り立っているコミュニケーションなどほとんど存在しない。枚挙に暇がないだろう。

最も重要なキャラクタは言うまでもなくグッドマンである。「ベトナム後」の「苛立つアメリカ」の象徴たる彼が、誰の話にも耳を傾けず、銃を突きつけて(たかがボウリングのために)恫喝し、ファミレスで怒声を張り上げ、錯誤の果てに車を叩きつぶし、身障者を車いすから引きずり倒す、その姿が何を意味するかは明白だろう。「索敵」に汲々とする彼の奇行を笑う、ということはとりもなおさず「アメリカを笑う」ことそのものだ。それは「敵(ピン)が再生産されなければゲーム(アイデンティティ)を維持できない」という国家観に寄せたアイロニーとして顕れ、強烈なナショナリズム批判として見ることが出来る。

「たかがボウリング」と述べたが、彼(アメリカ)にとってはピンとボールが無ければアイデンティティの危機にさらされることになる。また、冒頭で彼が言う「砂の上に境界線を引くことの難しさの話をしてんだよ!」との台詞と、終盤のカウボーイ風の男が言及する「砂塵を越えて西へ西へと向かう」という台詞。さりげないが、境界線を引くことが面倒なら相手を凌駕して潰してしまえ、というナショナリストの言説そのままである。「敵は鏡」なんて言葉があったかなかったかわからないが、「敵」がいなければ自己認識が不可能、というのは政治社会学上はよくあるテーゼだ。敵を探して東奔西走。征服者の基本的心理だ。

一方ムーアの役回りに見るべき点としては「妊娠」が「愚行の主体の再生産」という皮肉である。また、愛情(双方向性コミュ)不在のセックス、ポルノというモチーフ、「ガターに落ちて」における二個のボールとピンのイメージは男性器そのままである。サダム・フセインと思われる人物(一言も発しない)がシューズを差し出すアイロニーも実に強烈である。そして「征服者」の象徴的たるバイキングの衣装。アメリカは「ジョンソン(ムスコ)を切り落とす」=去勢すべきなのだ、という叫びである。

そして「灰のしっぺ返し」。ドニ-(ブシェミ)の遺灰に向けたウォルターの「弔辞」で、遺灰を海に流すことは「故人の遺志であった、と想像する」と述べている。確たる根拠はない。アメリカは良かれと思ったことを想像する。想像は盲信となる。盲信した空想はやがて「現実」というウソに変質し、「クニ」を席巻する。

そしてベトナムと湾岸の次に何が起こったかは既に周知の通りである。こんな辛気臭い話を伝えるには、ユーモアにより脱力的まろやかに語る他にない(かえって切っ先は鋭くなる)と思うが、ただ表面的に「笑える話」で片付けることには大きな問題がある。笑えるようで実は全く笑えない、というのがコーエン兄弟の作品群に対する正当な評価だろう。言葉遊びの世界だが、「嗤える話」というのが正しい、と私は思う。

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● ボウリングは「災いを祓う」という宗教的儀式が起源だという。起源についてwikiを見ると、より本作の見方が深まるかもしれない。

● 不精者を演じさせたらブリッジスの右に出るものはいないように思う。

● グッドマンは勿論だが、ホフマンの演技が光っている。この人はコメディセンスあるね。

● 肥満体のアメリカ人達が次々ボールを投げるオープニング。美しい撮影にアイロニーが映える。

● ボールを「投げる」ことによってピンを倒す行動の反復。「接近戦」ではなく「遠距離戦」。「線」をまたいだらベトナムの二の舞である。何故グッドマンは「線」を超えることに強迫観念を覚えたのか。「レーン」の距離感演出をこういった比喩として見ることも、不自然ではないだろう。

(評価:★5)

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