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[コメント] エクソシスト(1973/米)

人間の心に潜む憎悪を媒介にして憑依し、渡り歩くことで永遠の命を得る「悪魔」。根本が実体を持たない象徴悪との精神的戦いであるだけに、次に「悪魔」になるのは「わたし」かもしれない、という他人事でない普遍的寓意を獲得する。「悪魔」自体が怖ろしいのではなく「悪魔」に魅入られる「人間」が怖ろしいのだ。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







しかし後半、少女の肉体的変異と超常現象を「見せつける」ことによって寓意の威力が半減する。前半、少女の周囲で発生する異変の描写は精緻には行われず、密室の中で行われる。外的な悪魔にもってもたらされた異変なのか、憎悪に駆られた少女自身の手によってもたらされるものなのか、グレーな状況で進むサスペンス感と、このグレー感へ誘う少女の増幅する憎しみと孤独の描写が精緻で素晴らしい。これが後半、少女が完全にオバケ化すると、観る者の視座が移り、あまりの異常さによって、かえってそれらが他人事として冷めた認識下におかれてしまう。有り体に言って、ちょっとやり過ぎである。これがイケナイかどうかというのは個人の感覚の問題だし、イケナイとすると何と言うか映画が渋くなりすぎるのだが、私にとってはそれでいい。オカルト感の押し過ぎが、私にはマイナスに働く。難しいところである。

「信仰」という私たちにとっては腫れ物を触るようなテーマから離脱し、「悪との戦い」についてグレーな回答案を示すラストは良い。信仰よりも母への贖罪を優先し、憎悪に身を任せつつ憎悪をコントロールすることで憑依を誘い、自己犠牲で悪魔を討ち滅ぼしたカラス神父の姿は、崇高さと禍々しさの境界線上にある。カラスの中にも「悪魔の種」があったわけだ。カラスは聖職者という理由でタカるホームレスに憎しみを覚えてしまい(この地下鉄シークエンスが素晴らしい)、自らの信仰の揺らぎに対する苛立ちをサンドバッグにぶつける。根っから聖職者ではなく、元ボクサーであるという設定も各種に生きている。自殺はまた、キリスト教上では「ミッション」の放棄として最大の罪にあたる。友人の神父が瀕死のカラスに「告解」を勧めるシーンは出色。彼は徹底的に人間的であることによって闘ったのだ。それは闇と光のないまぜの闘争である。「善」「悪」「憎悪」という言葉への向き合い方を問われる今日にも通ずるテーマを秘めていると言えるだろう。

行きすぎたオカルト演出がなければ、基本的なレベルは流石に高く、大変に残念。冒頭の犬の咬み合いが現出する禍々しさ、パズスのシルエット、カラスの夢の演出が素晴らしい。狂騒の中でザックリと切られるカットも私好み。そして、何より怖いのは「日常」にごろっと異物感を曝す失禁シーンだったりする。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (4 人)おーい粗茶[*] たわば けにろん[*] 煽尼采

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