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[コメント] フィツカラルド(1982/独)

「映画的な瞬間」「偉業」は往々にして「神殺し」的であり、「バチ当たり」的なものと思う。理(コトワリ)に反し、「下に行くはずのものが上に行く」、そのアクションのベクトルが、ここでは「神殺し」のテーマに直結して強化される。人は「バチ当たり」を目の当たりにしたくて映画を観るのではないでしょうか。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







(『アギーレ/神の怒り』、『地獄の黙示録』、『カリスマ』のネタバレあり)

アギーレは神になるために運命に抗い、エルドラドで神を殺そうとして敗北した男である。彼は最奥まで流され、抗って運命の川の遡上を図るも、果たせずに朽ちる。

ウィラード(『地獄の黙示録』)は運命の川を遡上し、最奥に至り、神を殺して神となり、川を下って「世界」に戻る。言ってみれば、アギーレの宿願を果たした男である。その後は『カリスマ』の、滅びの世界だろう。

本作は、つまりはアギーレの続編であり、フィツカラルドはウィラードになるのだろうという先入観があって見始めた。「遡上」から物語が始まるところからして象徴的で、実際、山越えの達成はアギーレが果たせなかった神殺しだろう(「映画的な瞬間」は、しばしば神殺し的な味わいを残す)。

だが、彼はウィラードにはなれない。神は生きていて、急流で彼は神に敗れるのだ。ここで『アギーレ』がリフレインされる。

しかし、彼は滅びず、「世界」に戻る。やっぱりウィラード化するのかと思ったが、そういう陰惨な話ではなかった。一度神を殺したこの男の奢りを戒めつつも、神はその力を祝福しており、彼もその祝福を感じて享受しているようだ。彼はアッサリと船を売る。しかし彼は何も失っていない。一度神を殺した経験値を得て、彼は邪悪な神としてではなく人間として生きて行く。悪霊を祓われたのはキンスキーなのだ。エンディングの青空とキンスキーの笑顔が殺伐とした影を除かれており、やたらと爽快で虚を突かれた。世界と可能性は無限に広がっている。彼はまたぞろ壮大なバチ当たりをやらかすだろうという予感。愉快な映画でした。

(船のシーンは当然良いですが、労働のシーンが気合い入ってる印象があり、良かったと思います。でも、実は一番どこが良かったかと問われれば、カルディナーレがキンスキーと自身のツーショット肖像画をプレゼントされて爆笑するシーンです。キンスキーの真面目くさったしかめ面。「フィッツったら・・・おかしな人!」このシーン、身悶えしちゃいました。)

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)ゑぎ[*]

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