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[コメント] ミスティック・リバー(2003/米)

「友人」、「家族」という「理解を前提とされる”はず”」の関係性の一切が破綻しており、「理解」は「誤解」という狭く淀んだ空間で腐り果て、苛立ちの中で都合のよい「共犯関係=正義」に変質する。「一瞬の過ちと不条理」を発端に「無数の一瞬の過ち」を経て生まれた闇の中で、苦しむ者と、苦しむ者と関係ないフリをする人間達(「ともだち」をすら含む)の業が確実に「街」を蝕んでいく。元より「街」とはそういうものなのか。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「良く出来た火サス」風三面記事的な陳腐感も却って普遍感を体得。二度観れば分かるが、抜けていいシーンは一つも無い。実際無駄に思えたベーコンと妻のシークエンスも、ああ、こいつが何もかも知った上で何もなかったように一抜けちゃうんだなあ、と無常感を引き立てる。一見淡々と職務をこなしており、『チェンジリング』の警官ほど露悪的な要素のないベーコンの役回りも、よくよく見るとさりげなく無数の「過ち」を孕んでいる。妻との和解は見せかけほどキレイゴトでなく、感動的でないところがミソだ。パレードという陽気な空気の中でかわされる「目配せ」。苦いことこの上ない。

登場人物を「一瞬の、それとわからない人生の岐路」に立たせて(多くの場合は「誤らせる」)、「後戻り出来ない状況」を過ちの繰り返しの中で無常的にシミュレートするのがイーストウッドはお好きなようで。偶然が生む必然と、必然が生む偶然の強力なコンボ。ペンロビンスに肉迫するシーンと、真犯人の自宅での争いの被せ方なんか、「さあ、誤るぞ誤るぞ〜、こいつに誤らせるぞ〜」的なイーストウッドのヤるぞ感が炸裂して、ゲンナリしつつも握り拳を固めてしまう。

また、「目配せ」してからサングラスをかけたり、人物が歩く方向とか、三人の過去について当事者間ではほとんど話し合ったりしないところ(多くの人が期待したであろうシークエンスの欠落は、私には吉と出た)とか、立ち位置距離感、「詰めて座れ」の待ったなし感などの異常なこだわりに感動する。座る位置だけでサスペンス感は醸成出来るのだね。

そして、物語の始まる以前、終わった以後のことに思いを馳せさせるところは毎度素晴らしいと思う。それは、彼が常に「歴史」を描こうしているからだろう。彼の映画ではいつも、スクリーンの外で、スクリーンに収まりきらない大きな規模の事象が起こっているようだ。

肯定的に鑑賞はしたが、正直なところ、イーストウッド楽曲はすっぽ抜けている気がする。このストーリーに叙情は必要ない。スターン撮影も近作と比べて落ち着きがなく、幼少期のデイヴが森を逃げるシーンのカメラの首振りも陳腐だ。フラッシュバック描写も通俗的。ペンもノリ過ぎであるように思う。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)おーい粗茶[*] 3819695[*]

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