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[コメント] 七人の侍(1954/日)

全くもって湯水のような予算の蕩尽。本作の成功は、金がないと映画は撮れないというその後のクロサワの不幸の予告編のようでもある。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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最初に登場するのは農民たちであり、途中から侍たちが参集する。この二重底の構造、その中間に立つ三船敏郎という構成がとても魅力的だ。侍たちだけを見れば類型的なヒーロー物なのだが、農民との観点の違いがそうはさせない。この、そうはさせないという配慮が行き届いているのが本作の優れたところだ。

志村喬など、平凡な娯楽作なら、困難を突破する知性でもって観客を感心させる役回りだろうが、本作はその反対のことが描写される。人質の野伏をリンチする農民を止めようとするが、老婆が鍬を担いで登場すると止めてしまう。木村功の逢引が発覚する件でも、藤原釜足の嘆きに対して何の意見も述べない。彼の農民の立場への顧慮は、この自衛への参加を決める件から最後の有名な科白まで一貫している。周辺の民家を護り切れないという判断も慚愧に堪えない処だろう。彼の苦々しい思いが映画を支えている。

農民と武士と双方で引き裂かれる「△」の三船がまた効いている。この三段階の構造は、何かフロイトの理論の構図を想起させるものがある。ずる賢い農民という告白(そうさせているのはあんたたちだ、という)もまた素晴らしい。本作は絶対の正義をかざさない。誰も少しずつ悪いが、当面の必要のため共闘する、という処がリアルである。この生々しさは、アメリカの正義をかざす当時の論法に対しての、我々は仕方なく戦ったという先の大戦の空気が反映されているのだろう。云い訳じみているとも感じるが、大方の庶民の胸中を説明しているのは確かなのだろうと思う。

力の入ったパン・フォーカスは実に贅沢、やたら背景のピンボケが目立つ昨今の映画を観るにつけ、全盛期の映画という感想が湧いてくる。冒頭の野武士の話を聞いてしまった薪を担ぐ農民の登場の件からして鮮やか。個人的なベストショットは島崎雪子が亡霊のように岩陰から出てくる件。あの岩場沿いの隘路に雨だれが被るロケーションも凄い。狂女という主題はその後『蜘蛛巣城』や『影武者』、あるいは『八月の狂詩曲』で深掘りされることになる、その端緒だろう。ただし、いかにも講談読み物のような幾つかのエピソードは余り面白くなく、中盤の充実ぶりに比べてクライマックスの戦闘が尺も短く意外と淡泊なのはつまらない。

4K上映を観て、四方田犬彦「『七人の侍』と現代」(岩波新書)を読んで、この本とダブらない感想だけ書いた。面白い本なのでお勧めします。氏の見解で興味深い処を抜き書き。

○ 自衛隊再編賛美映画という同時代批評(自民党にウケた。『ゴジラ』の第2作は自衛隊の支援による北海道にゴジラが上陸する設定)と、ディアスポラの抵抗作品として各国で評価されているという両極の側面

○ 伝統的な殺陣を無視した三船敏郎の泥臭い造形の画期性、しかしその後のクロサワは様式美に向かうこと。

○ 『』は『七人の侍』の続編であること。トンネルにおける寺尾聡の戦死者への謝罪、笠智衆の農村における反転(水車小屋の継承)。

ただ、ジャンルの始祖という位置づけは、「八犬伝」だって「真田十勇士」だってあるのだから大仰と思う。竹槍が戦時中を想起させるのは判りやすいが、断髪させられる津島恵子にソ連からの引揚者を見るのはなるほどと思った。

藤木久志の「刀狩り」(岩波新書)は読んだことがあり、農民が廃刀令後も相当に武装していたのは知っていて観たので、本作の農民が史実に反しているのは当時の考証の限界と理解できた。身分制度の固定されていない当時、志村ら浪人と野武士、さらに農民は互換性があったのだ。野伏の立場をクロサワは絶対的な悪と位置付けているとのこと(「泥棒がいいという論理か。何ぬかす」)だが、しかし映画を観る限り、そこは強調されていない。この点も、時代の端境期に立つ映画という印象が強い。農民の疲弊ぶりは、むしろ江戸中期から後期の印象があり、それはそれで興味深いと思う。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)ゑぎ pori[*]

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