[コメント] 叫(2006/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
「地震で海に戻るのをみんな望んでいるのかも知れない」と冒頭に役所が云って映画の気分を決定する。埋立乱開発は地震の液状化により海に戻る。これは精神病院の患者を海水につける虐待が、地縛霊の復讐により顕在化されるのと並行しているだろう。
という話なんだろうが、どうも終盤チリジリになっているんじゃないのか。小西真奈美はとりあえず不要だろう。自分が犯人だと物証があがる犯罪の担当刑事という序盤は面白く、中盤の葉月里緒菜登場は驚きがある。ここまではとてもいい。上記の支離滅裂なら、いっそ理屈などいらない。役所は不条理に許されるが、彼が逮捕されたほうがずっと良かっただろう。懲罰とは不条理な方がリアルだ。
オダギリジョーは精神分析で「真実は間違えない」と云う。彼はフロイト派なのだ。罪悪感は個人に還ってくる。一方、映画は地縛霊を通じて罪悪感は集団に還ってくると主張する。これは集団的無意識を措定するユング派の論法だ(ユング派はオカルトと親和性が高い)。フロイト派のオダギリは訳判らんと云いながら退場することになる。世界的風潮(ジジェクはじめ)がユング派を軽視しており、この手のオカルトも古びてしまった。黒沢はこれに固執したオカルト人生を歩んだ訳だが、本作もすでにから古びているという感想が残る。
中村育二のビルからの飛び降りと、一反木綿のように飛び去る葉月里緒菜。見事なショットだが驚きがない。もう映画はCGによる実写のアニメーションだから、キートンの肉体性は共有できないという不自由さばかり感じる。ただ、これらを長回しでカットを割らないのは正しいのだろう。カットを割ると彩光が変わってしまいリアリティがなくなってしまうのだ。
海水に顔面をつけて溺れさせる殺害が三度繰り返されるのだが、この三つのショットが相互に似ていないのはなぜだろう。もっと因果というか関連性を求めるべきではないかと思った。あと、役所の刑事にはなぜ上司はいないのだろうか不思議だった。
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