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[コメント] 春婦伝(1965/日)

軍部批判の右翼が叫ぶ「天皇陛下万歳」は、コリアン慰安婦初井言榮によりさらに批評される。センチな清順、らしからぬ方の傑作(含原作のネタバレ)。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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「清順映画」(ワイズ出版)の本作の項は、この監督インタヴュー集のひとつのクライマックスだった。インタヴュアーはアナーキーという表現を繰り返し、イラついたのだろう清順から「私は右翼ですからね。間違わないでくださいよ」という決定的な言葉を引き出した。

続いてインタヴュアーは、監督が面白い映画だけを作ってきたのは承知しているが、「この映画に関してだけは、清順さん御自身の口からテーマについてお伺いしたいですね」と挑発する。清順答えて曰く「喜びも悲しみも神々の遊びである、と。対天皇ですよ」。天皇の戦争責任の主題については「それは意識していましたよ」。天皇についてのお考えは「あまり言わない方がいいよね」。清順が我に返って煙に巻いているのが見えるようだが、しかし対天皇の神々の遊びとは何だろう。昭和天皇は神々に遊ばれたということだろうか。

本作に関して右翼を語るのは得心のいく処がある。田村泰次郎の原作は右翼的であり、映画との呼応関係がある。そこには、天皇の意志を軍隊は踏みにじっている、という主張がある。主人公は、彼女をピイと馬鹿にする副官に対して「天皇陛下がそれを云うか」と云うと、副官は「天皇陛下がお前たちみたいなものを知っとられるか」と怒る。

この件は映画にもあるが、原作はさらに説明を加えている。天皇の意味を外国人の主人公(原作の主人公はコリアン慰安婦)は知らないが、そう口にすれば相手が粗暴な態度を改めることを経験則で知っていた。その意味で、「天皇」は身の安全を守ってくれていた。副官にそれが効かないのは驚異だった。一方、部下の三上(の肉体)には、身の安全を守ってくれるものを見ていた、と。

野川由美子が三上(川地民夫)と手榴弾で自爆する(原作通り)直前、川地は「天皇陛下万歳」を叫び、野川はそれを聞いて満面の笑みを浮かべる(これは映画のオリジナル)。これはこの原作の文脈で取られるべきだろう。だからこの万歳は、左翼的な天皇制そのものへの皮肉はなく、右翼的な皮肉、天皇を神と奉ったうえでの皮肉である。「天皇の軍隊」と権威を笠に着て、戦陣訓などを振り回した軍部の暴走への批判だった。

ただし、これは原作では単線的な主張だが、映画では上記の初井の言葉で相対化されているのを忘れてはならないだろう。

映画はコリアンの慰安婦の原作を日本人慰安婦に変更している。冒頭フラれて自棄になった野川由美子の「いろんな男の体に私をブツケたいんだ」みたいな造形は本国人でするべきだろう。映画の改編はそんなに悪くないと思う。原作はGHQの検閲で「植民地支配を受けた人々への不当な差別表現」で掲載削除されている。これも同じ趣旨なんだろう。原作の冒頭にあった「この一編を、戦争間大陸奥地に配置せられた日本人下級兵士たちの慰安のため、日本女性が恐怖と軽侮とで近づこうとしなかった、あらゆる最前線に挺身し、その青春と肉体とを滅ぼし去った数万の朝鮮娘子軍にささぐ」とういう作者の言葉も伝えられなくなったことを、全集の編者は惜しんでいる(なお、この慰安婦の日本人と外国人との棲み分けは小説本文にも出てくる)。

映画は代わりに初井がコリアン慰安婦で登場する。「逃げようと思えば逃げられたのにねえ。日本人すぐ死にたがる。踏まれても蹴られても生きなければいけない。死ぬなんて卑怯だ」。初井はラスト、チマチョゴリになって死んだ野川を泣きながら訴える。素晴らしい件だった。これは映画のオリジナルだ。これらを右翼清順が先導しただろうか。脚本の高岩肇の功績だろうか。

本作は、いつもなら出鱈目でリッキーな断片が、珍しく「説話論的」に機能しており、例外的な清順作品に見える。それは同じ田村泰次郎原作でセンチだった『肉体の門』(64)の続編の趣に相応しかった。冒頭の浮気の幻覚、野川主観で玉川伊佐男を写真のように八つ裂きに破るギミック、野川が着物脱ぎ捨てながら中庭駆けて玉川にキスする幻覚(この嫉妬描写は川地のものか混沌として判らない)。カルロス・ゴーン似で話題の副官玉川伊佐男への面当てで川地民夫を誘惑して純愛になる。

銃撃戦のなかをネンネコで2キロ突っ走る野川。川地と並んで寝転ぶと、音は飛んで聞こえなくなり、突然に故郷の美しい回想が映像の断片で示される。ここがベストショットだろう。この件、谷口の『暁の脱走』では対照的に音だけお囃子が聴こえる。2作でひとつの描写になっている。谷口作品へのオマージュだろう。手榴弾での心中にはストップモーションが連発される。

今井和子の、結婚相手の親が「キチガイ」だったから結婚できないという終盤の件は唐突で余計だっただろう。一方、初井に日本人と同じ金額をくれる、反軍思想で降格になった加地健太郎は印象深い。ピー屋にはディドロ「哲学断想」読みに来るだけで、そして「捕虜でいよう。支那では支那が政治をする」と八路軍に付いて行く。男性合唱団がオーオー唸るマイナーな劇伴はやりすぎスレスレだが神妙。野川はセンチが似合わない女優かと思っていたが、本作の造形はハマりまくっていた。ラストシーンでは慰安婦のクルマが銃撃を受けたという冒頭の件が反復され、いつまで続く泥濘ぞの感慨が蔓延している。

(評価:★5)

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