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[コメント] ROMA/ローマ(2018/メキシコ=米)

なぜこれほど曖昧な語りをせねばならないのか。それがアート系のつもりなら的外れだ。撮影は立派だが二番煎じ感拭い難い。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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アメリカ映画は70年代以降、過去への反省による変化を創作のモチベーションのひとつにしてきたのだが、そのモチーフは作者によって差異がある訳で、リベラル寄りだったりコンサバ寄りだったりする。本作はトランプのメキシコ国境の壁を批評したに違いなく、良心的なことは疑い得ない作品なのだが、しかし相当にコンサバ寄りであるように見える。

ヤリッツァ・アパラシオは少数民族の仲間がけしかける暴力革命から排斥され、白人ブルジョアの庇護を受け続ける。南部の黒人奴隷としての矜持を語る古のハリウッド作品の延長線上の1971年であり、ラストの物干台で彼女は自足しているように見える。

ブルジョア家庭は、それが亭主の浮気程度の小波乱に過ぎないにしても、アレクセイ・ゲルマンのタッチでさんざ小馬鹿にされる(豊富な自動車ギャグは本作をアメリカ映画の伝統に近づけている)。一方、アパラシオは理想化されており、案山子のポーズを彼女だけができるというギャグで極まっている。家政婦だがそれなりに家族の一員であるという微妙な立ち位置は、主人が戻った際の挨拶の濃度や、家主に替わる際に受話器を丁寧に拭く仕草で繊細に捉えられている。『次郎物語』みたいなものだ。

このような作劇にハリウッド過去作のような白人ブルジョア賛美はない。映画好きなら誰でも、ブニュエルがメキシコで少数民族をどう扱ったのか覚えているはずで、本作のアパラシオへの優しさはその記憶に向けて批評的だろう。家主たちブルジョアは新年パーティで沼に向かって拳銃をぶっ放し続け、革命分子は拳銃持ってデモを暴力化する。こういう剣呑な外延はただちに後期ブニュエルが想起され、政治的な単純化は取り除かれている。

だが、それにしても、少数民族の出自に映画としてコミットするのを避けているのが本作の欠点であるのは明らかだろう。これに真面目に取り組んだ近作(『サーミの血』など)に比べると大いに見劣りがする(火事の件で変な衣装着た男が歌を歌うシーンがあり、これがひょっとして重要だったのかも知れないが、残念ながら字幕が欠けていた)。

メキシコでの急進左派の叛乱は勉強不足にして知らないのだが、そりゃ隣がアメリカとキューバで、中南米に極左集団とアメリカの傀儡政権が乱立していた時代なのだから、メキシコでも色んな事件があっただろう。そんななか、白人ブルジョアが少数民族を庇護しましたというパターナリズムが示されるだけでは、それは良かったですねと簡単に加担はできない。

本作、監督の幼少期の半回想は過去を事実として提示し続け、そこに批評の入る余地はないという話法が採用される。だから例えば、日本語で号令がかけられるのに韓国人のコーチを呼ぶというカンフー系の武術は何なのかさっぱり判らないが、子供の記憶に則った記述だとすればそんな混乱もあり得るだろう、というところで許されてしまう。しかし、その手法でアート系に纏めるには、本作の政治的な題材はシリアスに過ぎるのではないのか。例えばアンゲロプロスだってアート系だが、史実について本作のような朦朧な語りで済ませたことなど一度もないのである。

撮影のアングルは低位置に設定されており、パーティの練り歩きなどクレーンの俯瞰を使えばもっと動的に撮れるはずなのにそうしない。これは背の低い少数民族目線ないしは子供目線ということなのだろう、という処で納得はさせられるが、優れた構図は見つけられない。突然の地震や火事はタルコフスキー好みだが比べて面白くない。いずれにしても二次的である(なかでは『大進撃』をかけている映画館のやや魚眼レンズかけただろう横長の固定ショットが良かっただろうか)。

モノクロ撮影は近年顕著だったピンボケ・ストレスが著しく改善されているのに目を見張らされるが、往年のフィルムの質感が再現された訳ではなく、ピンが合い過ぎてデジタル臭いだろう、ただ本作の神経症的な作劇に絶妙にマッチしているとは思う。意図的なピンボケは森の中などを除けばただ一箇所、死産した赤ん坊を画面奥に配置するショットだった。

この件は素晴らしいのかも知れない。死児をピンボケにするのは制作者の優しさだし、そこから一転、死児にピンを合わせてアパラシオに抱かせて、別れを告げさせるのも美しい。しかし、と引っかかるのだ。なぜこれを少数民族に演じさせるのだろう。白人美女に演せればいいではないか。彼女を動物に近い存在として扱っているようなニュアンス(『極私的エロス』が当然回想された)を感じてしまうのは、白人コンプレックスなのだろうか。

高波救出劇については、どう撮ったのかという興味も込みで圧倒的なのだが、しかし子供ふたりが溺れておらず半身を海上に浮かべているのは妙であり、撮影の限界があったのじゃないかと思わされる。

救出後、ゲルマンは感謝され、本当は産みたくなかったのだと、やっと胸のつかえを吐き出すに至るのだが、この科白ももうひとつピンとこない。あんな男の子供を産みたくないのは当たり前であり、それでどうなのか、雇い主に負担をかけるから中絶が云い出せなかったのか、実家で懐妊を喜ばれたから仕方なかったのか、それともどうなのか、よく判らない。結局、どうもよく判らない話法が最後まで選ばれているのであり、設定された主題の深掘りをなぜか避けているという不満ばかりが残った。

(評価:★3)

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