[コメント] 九十九人目の生娘(1959/日)
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こういう題材はどこまで民俗学的な妥当性があるのか見定めるのが大事だろう。刀鍛冶の落武者たちの山人化した部落、麓の民との交流はなく神社だけが間を取り持っている、という設定は興味深いものがあるが「剣の煙りを取るために生娘の血が必要」は冗談だろう。ということで冗談として観ることになる。
原作は「九十九本の妖刀」。「探偵実話」所蔵とあるのがインチキ臭い。北上川上流、蓬莱山を舞台としており、「いくら岩手が日本のチベットでも」なんて笑いを取る科白はバブル期みたい。刀づくりの失敗は三原葉子の「血が穢れていたせいだ」というのもウケ狙いだろう。
神主はヒヅクリ祭りの因習など止めて、部落と麓の村とが神社で交流しようと提案するのだが、部落の長は云い伝え通り、祭りの日には神社周辺にいる者は殺されると脅し、そして神社の地下で生娘の生血で刀造り。
童顔の沼田曜一の白髪神主はちょっと苦しいが、可愛い山娘の松浦浪路に慕われているのがホノボノしていていい。本作の美点は山中ロケで、ふたりが部落へ向けて岩山登るカットなど愉しい。一方、終盤は同じルートで部落の若い衆と警察が衝突、若い衆は弓矢や転石で攻撃するも、警官隊は彼等を射殺し全滅させる。こんなことが許されていい訳はなく無茶だ。ホッとしている松浦と子供たちをワンショット映して映画はハッピーエンドを演出しているのが何とも云えない。科白棒読みの菅原文太は木偶の坊のよう。新東宝のクラゲロゴ、ワイド。
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