[コメント] コントラ(2019/日)
娘の円井わんの行き場のない短気、不満は冒頭の土手の自転車転落で表され、これが中盤、同じ土手を転落する間瀬英正を(逃げる父を制して)救出するという併置で改心が示された(父の山田太一も別の短気を示し続ける。酔っ払い運転をまるで反省しない)。娘は目玉焼きの黄身を啜る。これは『オテサーネク』の古霊に憑かれた娘という主題を引用しているが、『家族ゲーム』でもあるだろう。伊丹十三のこの癖は長男の日の丸背にした剣道部入部に繋がった。
祖父の日記の手帳には「皆で飼おう軍用兎」とか「電力即戦力」とかのチラシが糊付けされており、その無軌道さは社会の狂気を思わせる。この手帳を娘は貪るように読む。娘は社会の狂気に憧れている。個人の狂気は社会の狂気を求めている。
間瀬英正は殆ど、死んだ祖父の生まれ変わりなのだと思う。逆走の他にも紙を喰らい小銭を喰らう。しかし風呂場や屋外で外国の歌唄うという謎かけがある。祖父は死ぬ直前に「異国の丘」を唄っていた。
祖父の日記は円井わんを無条件に安堵させる。この感情こそが本作最大の不条理。憑かれたように森の中で穴掘る。「学校より大事だ」と云うと父もなぜか同意して、埋めてある場所は「たぶん知っている」と呟き、そこから発掘される。娘のように欲望をあからさまにしないが、父もその欲望を共有していて、理性でもって隠している。
ついに間瀬は手帳に祖父と同じタッチで、拳銃構える娘を描いて去る(最後に父を拳骨でコツンと殴るのがお決まりのいいギャグ。何もこの世のことは判っていないように見えていたが、その実全部知っていたのだ、という)。娘が岩山のうえで拳銃ぶっぱなし続けるとき、男は前を向いて走り始める。戦争がこの世では普通であり、非戦は逆走だった。この感情の刹那的な爆発は、右傾化する現代の加速主義の隠喩として説得力を持った(最後は、娘は弾を使い果たして戦争を終えるために銃を撃つのかも知れない。ここは多義的だっただろう)。
父は祖父の墓前で般若心経を唱えている。こんなことできる者は日本ではリアルでないが、インド人監督が外した、とは思われない。これは意図的な演出と思われる。父は、死んだ祖父が仏教の伝統に則り、死んでから悟達に向けて仏教の修行をしていると(構造的に)確認している。読経もそのためのものだろう。 ここでひとつの主題が浮かび上がる。死んでから人は改心するだろうか、という主題だ。本邦では、人は死んだときの思想を保持し続けるという通念がある。だから軍人は軍人の、特攻隊は特攻隊の思想を戦後70年経っても保持し続けている。彼らの墓前で戦後民主主義を唱えても、彼等は理解できない。大日本帝国のために死んだままである。そういう通念だ。
本作の祖父は日記のままの人生観を死の直前に確認して死んで、大日本帝国の軍人のままでいる。その思想は不条理に娘を毒し続ける。父は般若心経で悪魔祓いをするが、通じない。しかしそれは本当なのか。父の読経はこれを批判していると思われた。日本でリアルではないがインドではリアルかも知れない。
兵がどういう体験をしたかで、その映画は好戦か反戦か厭戦かが判る、という判断基準がひとつあるだろう。本作の兵隊の日記には何の感動物語もなく、ただ上官からのリンチが朗読されるから、その意味で本作は反戦映画と観てよいと思われる。そのうえでの加速主義と受け止めた。
ロケは関市。私の田舎と似ていた。田舎町の光景は本州のどこでも同じではないのかと疑わせられるほどだった。
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