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[コメント] 神々の深き欲望(1968/日)

日本=沖縄という図式が決定的に古びてしまっている。琉球語は一言も話されず、当時は和製ポップス全盛のはずだが、三線で「ヨ・バ・イ」などと唄い踊る音楽センスがひたすらダサい。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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ウンタマギルー』等の綿密な地方映画によって存在価値を抹消された作品ということだろう。琉球語の欠落は世界中の人間がなぜか英語を話す昔のハリウッド帝国主義とパラレルでもある。しかしまあ、それは別に今村の罪ではなく、サイード以前は世間一般が単一民族という認識だったのだから仕方がない(オーシマの『夏の妹』は流石に違うが、これだって酷いものだ)。

じゃあ、これに目を瞑るとどうか。映画はこの島の一神教を否定し多神教を肯定している。近代化を受け入れる歩みを否定的に捉えつつ、その根源にある猥雑な人間存在を肯定している。神話的世界は二重底だとしており、この点筋が通っている。

タイトルは「神々の」なのだからギリシャ神話のような多神教の世界な訳だ。穴掘る三國連太郎(当時流行のシーシュポスの岩が想起される)は別の島で神になろうとして抹殺される。手元にあった矢島翠氏の論評によれば、アニミズムの長にして製糖工場を仕切る加藤嘉には天皇制が暗示されているらしい(これは違うだろう。高度成長期に土建業を仕切ったのは自民党であり、天皇は全然係わっていない)。とすれば多神教が一神教に粛清される物語、ということになる。ここまでは判りやすい。

判り難いのが沖山秀子で、耳鳴りが神とのコミュニケーションを暗示しつつ、このクラゲ島の創世神話(男女が揃わないと島に降りられないという)の女として、一神教が支援する北村を迎え入れるに至る。私の解釈では、本作は多神教の女が一神教の男を迎え入れてしまう悲劇が綴られている、ということなのだと思う。この女は誰でも迎え入れてしまうのであり、多神教の世界はここから綻びることが運命づけられていた、と。何か無理矢理感がありますが。

本作の美点はユーモアで、北村和夫はじめ小松方正嵐寛寿郎浜村純らがそれぞれ独自の味を醸し出していて飽きさせない。撮影は基本とろ臭く、前後に配置された人物のうち、喋っているほうにピンを合わせないという手法が繰り返し用いられるのが生理的に気に入らない。ただ、海の青が箆棒に美しいショットが何度かあった。あれは色彩処理しているのだろうか。

中上建次は本作を褒めていた(北村の「スカッと爽やかコカ・コーラ」なんてのは小説ではできない、と)。しかし、熊野神話を綴った氏が本作のどこが気に入っていたのか、私にはよく判らなかった。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)けにろん[*] ぽんしゅう[*]

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