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[コメント] 血槍富士(1955/日)

「ラプソディ・イン・ブルー」のリズムで奏でられる「海ゆかば」
寒山

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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私は井上金太郎の作品を観たことがない。だから小津や清水の交友録にしばしば名前の出てくるこの監督について、感想を述べることができない。本作は内田吐夢の戦後復帰作として重要作であると同時に、井上金太郎回顧(54年没だから本作公開の前年に亡くなっている)作として重要なのだろう。『アマチュア倶楽部』の時代から井上と内田は俳優の同期であり、本作は云わば日本映画の歴史そのものであるはずだ。

冒頭から音楽は「ラプソディ・イン・ブルー」そのものであり、本邦時代劇がいかにアメリカ映画の影響下にあるかをすっかり示しつつ、ラストにこのリズムのまま「海ゆかば」が奏でられる。これは、制作者の面子から見て驚きである。「軍部は馬鹿だったが、軍人はよく戦った」式の、大岡昇平的な戦中派の認識を示しそうな人たちなのだから。このラストで片岡千恵蔵は、槍持ちに憧れて付いてきた少年を袖にしてひとり去ってゆく。これほど手厳しい戦中派の自己否定は、容易いことではなかったはずだろうと思う。これを支えていたのは、草創期からの邦画の歴史ではなかっただろうか。

話は、銀山で働いて娘の見受けに来たらもう娘は死んでいたという脇役月形龍之介の悲劇であり、片岡千恵蔵の一行はこれを傍観するに留まる。本式の悲劇にしたいのであれば当然、月形を主人公にするか、千恵蔵たちをもっと事件に深入りさせねばならない(槍を本当に売り飛ばす、とか)。終盤の、云いがかりをつけられた武士たちとの決闘は付け足し感ばかりが残る。

この作劇の不徹底の揚げ足を取るのは簡単だが、そんなことは制作者は百も承知だろう。なんでこんな展開にしたのか。まるで、悲劇は軍人以外の人々が全て担うのであり、軍人はその外側でチャンバラをしている虚しい存在なのだ、と語っているかのようだ(「主人と下郎」の言争いなどどうでもいいような話である)。これもまた、本邦映画史と付き合わせて考えるべきものなのではないか、という手触りがある。佐藤忠男氏は本作に、満鉄映画を横断した日活多摩川のリベラリズムを読んでいる。四方田氏が「内田吐夢伝」を上梓するらしく、こんな興味でもって読んでみたいと思う。

序中盤の、いろんな処に天国を見つけるグダグダしたタッチは三村伸太郎節に違いない。旅のバラバラな行列(武士がいて、旅芸人がいて、身売りがいて)が渡し舟で一緒になる冒頭からして鮮やかな作劇がある。逆光のなか街道を行く千恵蔵と少年の背中を延々と追うショットの美しいこと。祭り囃子を遠くに聞きながら展開される一夜目の寸劇群は夢のようであり、二日目に振る雨は天上が抜けそうだ。旅籠屋の土間で少年が泥棒に跨り、最後は入口から槍先がにゅっと覗いて終わるドタバタも、樽や格子を使い回す殺陣も素晴らしい。復帰作でこのブランクを感じさせない充実度は、凄いことではないだろうか。

(評価:★4)

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