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[コメント] 愛と死をみつめて(1964/日)

吉永小百合だからこそ原爆被害を真面目に想起すべきだろう。本作には花も恥じらう妙齢に水膨れて死んだ娘、ケロイドで苦しんだ娘の無念が倍音として響いている。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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肉腫は現在でも標準治療が確立されていないとのことらしい。難病者が出れば一家離散の時代であったと本作は記録している。保険制度や医療への批判には制作者の良心が窺え、メロドラマの装飾以上のものがある(批判を受けて医師の内藤武敏が途中から登場しなくなるのが何とも云えない)。

さらに連想されるのは原爆被害である(今たまたま「黒い雨」を読んでいる最中なので強く思う)。吉永小百合の自薦企画と予告編にある。昔から真面目な人なのだ。本作出演は吉永氏の原爆詩朗読活動の機縁のひとつであったに違いないと思う。本作で最高にベタなのはかの有名な「禁じられた遊び」のギター演奏であるが、オリジナル作品の遊び(戦死者の弔い)を想起すれば、途端に甘いなどと云えなくなるのである(『ひろしま』『第五福竜丸』の八木保太郎の脚本であることも重要)。

本作で彼女の美貌は第一次のピークを迎えており、妙齢の女性に特徴的なことに顔が次々と変わる。この変化が不思議と筋の進行に収まっており、終盤には四十代に見える。これは偶然ではなく「役に入っている」からこそできることなのだと思う。そこへ加えられる折り重なる包帯の強度は強烈である(なお、本来は包帯は後半になるほど面積が増えないといけないとは思うが、些細なこと)。

「嘘の嫌いなマコ、何で嘘ついた」と浜田をイジメる吉永には、若い恋人らしい幼児退行のなかに、とても複雑な認識が垣間見える(このときの会話内容が登山を巡るものであるのも象徴的だ。吉永は死の階段を昇るのだから)。眠れと勧める浜田に「このまま死んじまっても知らんから」と拗ねる吉永もそうだ。このとき吉永にとって浜田は、人のいない世界との境界を決めるつっかえ棒、最後の人、あるいは神の位置にいるように思われる。助けてくれるのか見送ってくれるのか、全ては浜田が決める。頭を抱える浜田はこれを耐えきれないように見える。部屋を去る浜田の「さよなら」は見事なダブル・ミーニングで、吉永はこの言葉にこの世を去る許しを得たに違いないと感じられる。このトルストイ「イワン・イリィチの死」のラストを彷彿とさせるリアリティはとても優れている。

本作にはメロドラマらしく腹立つ馬鹿がたくさん出てくるが、最高傑作は吉永が苦しんでいるのに「今日のナイター、巨人阪神ですよ」などと云ってさっさと立ち去る看護婦だろう。私はさすがに頭に血が上った。初井言栄を「あいつ分裂病やねん」という宇野重吉は時代を物語っており、ミヤコ蝶々の創価学会も時代(64年は公明党の国政参加の年)。これとの対照で語られる北林谷栄の、貴女はキリスト教かの問いかけを吉永がやんわり退ける件(聖母像が背後に置かれてある)は、色んな含みがあり心に残る。

私は若い頃は逃げ出しただろうベタも最近は気にならなくなった。加齢の余得だろうか。死老病の愁嘆場のひとつやふたつ、誰でも体験しなければならないことであり、そこでは過度の親密が貴ばれるだろう。浜田光夫はこういう世界を受けて立って最強であり、本作も彼無しでは成立しなかっただろう。病室での同棲や「寒い朝」の合唱のご愛敬もいい。極めてドライなラストは見事。ここに浜田が参加しないのがいい。実話ベースのリアルがあった。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)ゑぎ[*] 水那岐[*]

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