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[コメント] 私が棄てた女(1969/日)

小林トシエに★5、浅丘ルリ子に★2。浅丘だって全裸の背中晒しての熱演なのに、この報われなさはかかって演出の責任である。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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小林トシエ浅丘ルリ子を対比する映画が目指されたに違いない。絶妙のキャスティングだ。腰回りの相違がすごい。で結果、小林は素晴らしく、浅丘は霞んだ。

浅丘が加藤治子河原崎長一郎とハイソかつ泥臭い恋愛観の応酬を演じた直後、河原崎は浅丘の乗る車を捨てて五反田の下町を走り、小林に再会する。この時の小林の涙顔の鮮やかなこと。愛情への素朴な肯定性に満ちている。これがそのまま浅丘への批評になっているのが素晴らしいのだ。ペンフレンド(!)としてハチ公前に現れるあか抜けなさから、パンツ見せての転落に至るまで、本作の彼女は最高である(私は観るまで小林トシ子だと勘違いしていたので、更に衝撃があった)。

で、浅丘は何だったのか。後半が拙かろう。スレてしまった旧友しま子の夏海千佳子と小林の関係を軸に延々話は展開するのだが、単純な時間配分として、夏海の位置には浅丘がいなくてはならない。河原崎との三角関係を描く時間が短かすぎて、何のコクもないままに意味不明の収束に至る。

この収束、能面も観念的なカラーパート(全共闘についての価値判断に係る前振りがないので何を云っているのか判らず、観念的だなあという漠然とした印象しか残らない)もさっぱりなのに加え、唐突に「ミツは俺だ」と河原崎が云って終わり、ではいかにも貧しい。これ当時、山内久の名科白と云われたらしいが、そうは思われない。どういう具合にミツは俺なのか。まさか加藤武と将棋を指して勝つことじゃなかろう。

科白が映画的でないから駄目なんて偏頗なことを云うつもりはない。使い方の問題だ。例えば『白痴』で最後に原節子が叫ぶいわゆる名科白「私たちが白痴なんだわ」には、ここまでの積み重ねを反転させる仕掛けがあった。しかし本作には何の仕掛けも見当たらない。ならばどのように俺はミツになるのか、これから観せてもらわねばならんだろうに、何とこの科白だけで終わる(浦山は共産党系だから全共闘が嫌いで、元シンパの河原崎を最後まで言葉だけの薄っぺらい人間として描いているのだ、という凄い感想がネット上にあり、まさかそんなことはなかろうが、そう取られても仕方ないと思う)。浅丘に至ってはさらにタドタドしい科白で全くの宙ぶらりん。この収束は殆ど手抜き、ぶち壊しである。

こんなことなら河原崎も浅丘も脇役にすれば良かったのにと思う。スターシステムの弊害だろう。本作、小林だけなら絶品なのだ。いい断片も多い。雑誌のペンフレンド(!)のコーナーに〇×付けている江守徹の不良苦学生とか、野原でドドンパ節踊る小林と夕闇迫る埠頭で浜辺の歌歌う浅丘の対比とか、岸輝子の狂言自殺とか、佐野浅夫の怪しい医者とか、途中で片脚と判明する養老院の院長とか。相変わらずシンクロ好きだが、幼いセックスに屋外の高校野球という並行は感じいい。

キノシタのユーモア混じりのリアリズム映画に近い暖かさがある。終盤の似合わぬ前衛は、この世界への飽きたらなさの現れなのかも知れんが、キノシタは前衛ももっと巧くこなしたよ。原作未読だがハンセン氏病の話で有名なはず。なぜこの主題を映画は棄てたのだろう(出たがり出演もしている原作者は了解しているのだろうが)。あと、中盤、回想シーンでモノクロが着色されるのに、全共闘突撃映像とシンクロさせる処だけ着色されないのはとてもマヌケである。

(評価:★3)

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