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[コメント] 8 1/2(1963/伊)

湯治治療に行き、愛人を抱き、回想とハーレムで二度ワイン風呂につかり、最後も素っ裸になる映画。この秀逸な入れ子構造の時間差の感覚は二度と再現不能だろう。
寒山

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







シークエンス毎の感想羅列(長いよ)。

(1日目)

・渋滞からの脱出・飛翔・捕獲の幻覚……このシュールな件は強烈で、学生の頃観て感動したものだった。今思えば過去の映画遺産に多くを学んでいるのだが、しかしこれをワイド・サイズで撮ったのが貴重、だからこそバスの窓から垂れ下がる腕の並列が圧倒的になった。これほど贅を尽くした映像を千円そこらで観てもいいのだろうかと思う。

・気付くと自室で受診中……協力を求めた作家がすでに登場し、途中首括りの刑に合いながらも最後まで嫌味を並べ続ける。彼が枢機卿に似ているのは意図的だろうが、ゴダールに似ているのは意図的なのかどうか。

・湯治場の庭園、クラウディア・カルディナーレの「泉の娘」……アップとロングが繰り返される群衆の描写がまた圧倒的。キャメラマンのピン送りのテクは完璧だ。舞台で再現不能という意味で、映画ならではの名シーンと思う。有名監督の主観という設定がシュールさと鬱陶しさを同時に醸し出している。ただ、旧友との再会の件はなぜ加わったのか、その後の扱いも中途半端で、本作唯一の無駄と思われる。

・愛人カルラの到着、ホテルで食事、夜を過ごす……「来ない。良かった」と帰りかけたら汽車の後ろから登場するという古典的なギャグと、カルラが鏡のグイドに話しかけ、振り向いて至近にいたグイドにまゆ墨を塗られるカットがいい。

・死んだ両親の夢……ブニュエル系のシュールリアリズムの印象が強い。地面の穴に還っていく父親の件は、とても残酷で哀切極まりない。最後に妻が登場するのは、妻も死んでほしいという願望か。

(2日目)

・ホテルのロビーで映画関係者と次々に面会……前段の夢がグイドの廊下の陽気なステップに繋がれる。ここは感情の繋ぎが荒く、何度観ても違和感がある。面会の羅列は鬱陶しさ満開。

・夜は屋外で会食。マヤの手品、アサニシマサ、幼少時の回想……この道化師のキャラは素晴らしい。手品が始まるとそそくさと立ち去ろうとする制作隊一行は、そもそもグイドの映画を真面目に考えていないという非難だろう。回想は密やかな音楽が抜群で、利発そうな娘がまた印象的。陰気な老婆はハーレムの甲斐甲斐しい妻と対比させられている。

・ホテルに戻り、中年女優の悩みを聞き流し、妻を電話で呼び寄せ、制作部と喧嘩。「才能もひらめきもない嘘つきの末路か」

・自室でクラウディアの幻影……極めてエロい。ここで彼女はグイドの提案をすでに笑い飛ばしている。そんなもの虚飾に過ぎないとばかりに。

・熱を出した愛人を看病……カルラの化粧の剥げ落ちた顔(クラウディアとの対比が残酷)と夫想いの発言が重たい(なお「夜中?」「午後の4時だ」という会話があるが、よく判らない。午後4時が正確だとすると、グイドはこの忙しいのに前段から昼過ぎまで寝ていて、この日は看病しかしていないことになる。午前4時の間違いではないのか)。

(3日目)

・湯治場の庭園で枢機卿に拝謁……ここで本作の入れ子構造がグイドの口から語られる。「主人公はカトリックの教育を受け、あるコンプレックスを抑制できずにいる。枢機卿が現れ真実を示すが、彼は納得できずに救いとなる“ひらめき”を求める」。本作はリアルタイムで撮られたグイドの私映画だとここで判明する。観客は、撮るべき映画がすでに撮られつつあるという時間差の感覚に襲われることになる。こんなことができるのは私映画だからで、映画史上一回切りのネタだろう、撮ったらパクリになるもの。

・サラギーナの回想……サラギーナがクラウディアと同じ場所から登場するのは笑えるが、この類比こそ本作の主題と思われる。砂浜の映画は平凡なものが多いが本作は例外、海をここぞというときしか映さないのが巧い。海辺の貧しい家屋は『』のジェルソミーナの故郷が想起される。少年が捕まるドタバタが軽快。告解でサラギーナは悪魔なのだと教えられ、もう一度訪ねて帽子を振るとチャオを豪快な笑顔が返される。この件がとてもいい。サラギーナが最後のダンスに加わって枢機卿の傍にいるのがまた素敵だ。

・温泉で再び枢機卿に拝謁。「教会の外に救済はない」……先のグイドの粗筋通りになる。

・夕方、妻一行の到着……この公園でのアヌーク・エーメのコェティッシュな即興ダンスの断片は、これまたジェルソミーナが想起される。映像はグイドをザンパノと類比させている。

・プロデューサーたちと発射台の視察、妻の友人に諭される。「正直で嘘のない映画を作りたかった。我等の内なる死を葬る映画だ。だが葬る勇気などなかった。この発射台、なぜこうなったのだろう。何も語ることがない。でも語りたい」。

・ホテルで妻と喧嘩、「僕の何を知っているんだ」「見せてくれる部分だけ」……ラストの和解の前振りであり、夫婦は話し合う時間を持ちましょうという、という判りやすい根幹ではある。

(4日目)

・朝、テラスで妻と愛人の鉢合わせ……最後に二人が仲良く語り合うというグイドのわがままな幻想が挟まれ、次に繋がる。このわがままは、ラストのダンスとニアミスを犯しているが、微妙な差異が大事なのだろう。

・ハーレムの幻想……ワイン風呂とタオルで包まれるグイドは2日目の幼少期の回想の反復であり、ハーレムは幼児退行願望だと示されている(全体の舞台は湯治場なのだから、本作は風呂場で裸になる映画とも云える)。中年のグイドは「セックスできない、言葉と愛撫だけ」なのだから、男は美女全員と寝たいものだ、というあけすけな願望とは少しずれているが、ともあれモテる人モテない人共通の男の病には違いなく、普遍的な病巣を突いている。

・劇場でこれまでの登場人物を演じる役者候補のカメラ・テスト……既に枢機卿との会見の件で入れ子構造は判明しているのだが、ここではカルラやサラギーナの役者が具体的に舞台に登場する。時間差もなしにカルラと同じ服装をしたキャスト候補が揃う訳はなく、全てはグイドの頭のなかで起こったことのはずなのに現実に復讐されているようで、超自然的な(あるいは超能力者であるプロデューサーの仕掛けた)懲罰の印象が強い。それともこれも彼の頭の中で起こっただけなのか。すると彼は映画監督などではなく「でも語りたい」だけの狂人ではないのか、という疑問が湧き起こる。実際、そうなのかも知れない。

・クラウディア到着、「貴方は愛を知らない」、夜の廃墟で映画はないと告白。プロデューサーに掴まる……「泉の娘」は“ひらめき”の対象ではなかったという狭量な幻滅。

(5日目)

・発射台での記者会見の失敗……夜だった前段がこの真昼と思しきシーンに繋がるのが巧みで、幻覚・白昼夢の印象を強めている。この記者会見での人物の交錯もすごい。ガラス張りの机が効いている。机の下でグイドは拳銃を取り出し、銃声がする。これが自殺だとすれば次のダンスは死に際の走馬燈ということになるが、後段が生きる意味を強調するため、映画はこの見方を退けているように見える。当初ラストは別物だったのは有名な話だが、その名残かも知れない。自殺は映画の終わりの比喩と考えるのが妥当なのだろう。

・現場の解散、登場人物全員のダンス……この劇映画史上最強のシーンは、ここまでの庭園その他を群衆が乱雑に動き回るシーンとの対比があるからこその強度が生まれている。完璧な編集で音楽と見事にリンクしているのがまた素晴らしく、幕が開かれるショットと道化師のアップには鳥肌が立つ。あっという間に終わり、最後にまた夜に戻るもの巧み。鬱屈がついに弾けるという物語の生理の巧みな反映であり、よく判らないけど感動的、という感想は正しい。「自由になった気がする。全てが善良で有意義で真実だ」というグイドの妻への告白は、作家の「全ては空だ」という饒舌と妙にリンクしており(「伝道の書」というより諦め=明らめという仏教的な印象が強い)、鬱から躁に病状が変わっただけとも取れるが、そんな感想は意地悪と云うものだろう。ある理想と幸福を十全に描いており、力強い。蓮實重彦はこの大団円を深層と否定し、表層に留まり永遠に喧嘩を続けるゴダールを支持した(淀長さんは逆)。私としては、そのタイプを極めた点で両雄とも素晴らしいと思う。

(評価:★5)

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