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[コメント] ひなぎく(1966/チェコスロバキア)

ラブレー系風刺映画。共産圏の消費賛美と思っていたら随分違った。その方が過激だったろうが、存外真面目。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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途中、農村の件が出てきて、タイトルバック(とても印象的)に爆弾投下のフィルムと重ねられていた滑車が登場し、娘たちの無茶苦茶はここだけトーンダウンする。ここで本作のメッセージ性が知れる。この娘たちの乱痴気騒ぎは、共産主義の特権階級によるプチブルな食生活に対する叛乱、鼠小僧みたいな義賊的な振る舞いなのだ(監督が本作を「腐った社会を写す像」と云っているのはそのためと解した)。

メッセージの方向性は、共産主義そのものではなく、その偽善性に向かっている。東欧の共産主義の崩壊は実際、為政者の特権階級振りを暴く処にあったのだから、本作はそこに向けての歴史の始まりと呼べるのだろう。

ただ、上記の裏返しになるが、本作が纏ってきた意味不明な娘たちの過激さという神話とは、随分違う印象があった。例えばもし、質素な共産主義が貫徹され、格差が生まれていなければ、本作の出番はあるまい。そんなものがあったとしての話だが、少なくとも監督はその理想から現実を皮肉っていると見える。

本邦から見れば、これは日本より激しい格差社会のグロテスクの戯画であり、別にこの娘ふたりは新時代のヒロインではない。だからここに過食症の自己嫌悪を読み取った岡崎京子は圧倒的に正しく、彼女のように意味を反転させずに本作をそのまま称揚するのは、本作のイロニーを見逃すことになるだろう。

なお、今回の再上映に係るラピュタのサイトによると、最後の「踏みにじられたサラダだけを可哀相と思わない人に捧げる」は誤訳、「踏みにじられたサラダだけを可哀相だと思う人に捧げる」が正しいとのこと。前者なら過激な消費賛美だが、後者なら農村尊重の主張だろう。私の意見とリンクしているように思う。本作の神話は誤訳から作られていたのじゃないだろうか。

(評価:★4)

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