[コメント] 野いちご(1957/スウェーデン)
映画を見終った人むけのレビューです。
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ベルイマンにしては冒頭の悪夢はじめ採光が明るいなあと思って観ていると次第に暗くなり、二つ目の悪夢でついに闇になる。そしてこれが一日の経過と物語の深刻化の生理に合致している。上手いものである。
人は誰でも思い出したくない、思い出しただけで叫び出したくなる不幸な思い出のひとつやふたつは抱えているものだろう。これをヴィクトル・シェーストレムの老医師はハレの日に思い出し続ける。これがド外れていると感じるか世間並と感じるか、観客にも手鏡が差し出されている。
置き去りにした95歳の母がいつまでも持っているおもちゃ箱と、死んだ妻の密通の覗き見の記憶(「あなたが思い出すのはいつもこの場面ばかりだ」)、そしてどん底は、自分の息子グンナール・ビョルンストランドが妻イングリッド・チューリンに告白する「人生に吐き気がする」(この回想で車窓から覗かれる雨の海岸線がとても印象的。再見の私はこの場面だけ強烈に覚えていた)。なんという親子三代。老医師の不幸はイングリッドの孕んだ子供にまで及ぶのだ。
映画はビョルンストランドラストの軟化と、再登場の老家政婦ユッラン・シンダールの距離感を保った献身で閉じられる(老医師は彼女に結婚を申し込むのかというニュアンスもある)。ベルイマン映画はラストでこのように手綱を緩めるときと、最後まで突っ走るときと両方あるが、本作は前者で纏めてとても成功している。なんか生温く終わるのだけれど、残酷は何も解決されずに残されており、今後も間欠泉のように吹き上がるだろう。どんな派手なカタストロフよりも、これは残酷な収束だ。ラストショットの風呂屋のペンキ画みたいな安っぽい回想の光景との間で引き裂かれているから残酷なのだ。
ふたつの悪夢はどちらも優れているが二つ目が好きだ。車ひっくり返す夫婦の再登場が素晴らしく(あの戯画化された夫婦仲の悪さは老医師の夫婦仲の回想、反映だろう)、訳が判らないが陰惨な印象の教室が素晴らしく、覗かされる顕微鏡のグロテスクも宣告の「有罪が罪です」も派手派手。そしてこれが妻の密通に至る。こういう手法も併せ、作劇は19世紀のロシア文学(特にゴーゴリ)の継承がある。
トランジション・ショットは平凡だがあえて平凡にしているように見える。同じ言葉を喋る回想の双子がやたら奇妙で面白く、ビビ・アンデショーンの連れの男ふたりが神はいるかいないか論争で喧嘩する件も面白い(ゴダールは影響受けているだろう)。ただ、これが肝心な処だが、このふたりの論争でもって、全てがカソリックに回収されるだろうという予定調和が見えるのは弱い。
ベルイマンは神と悪魔の間をいつまでも往復し続けた。例えばタルコフスキーの、最後は神に全部委ねることになった生涯と比べてしまうのだが、タルコフスキーには移民としてそうせざるを得ない必然的な選択があった。安定した国で生涯を終えたベルイマンの芸術はそんな必然性に恵まれず、神経症的な自己劇化が主題になった。そんな感想がある。
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