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[コメント] GO(2001/日)

「あなたが私を竹槍で突き殺す前に」
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







諸兄のコメントは穏健なものが多く、いまどき「血が汚い」とはナンセンスという意見が幾つも見られる。映画ファンの視点は確かだと嬉しくなる一方、2001年(W杯日韓合同開催の前年)の空気が真空パックされているように見えて胸がモヤモヤするのを禁じ得なかった。2018年はノドン・テポドンの後、米朝首脳会談とその後の泥臭い綱引きの年。朝鮮総連に爆弾が投げ込まれ、新進作家李龍徳の「文藝」新連載のタイトルは「あなたが私を竹槍で突き殺す前に」。事態は殺伐としてしまった。

「俺が国境線を消してやる」と窪塚洋介は叫ぶ。本作は青春映画だが、朝鮮総連からの(山崎努の父親を間に介した)二世代にわたる離脱と孤立を裏主題として掲げている。スキゾキッズ、ノマドという言葉が想起され、本作はこの哲学を実地に移した一大成果だと思う。しかしその希望は絶望と背中合わせではなかっただろうか。

このとても魅力的な主人公はその後、どのように成長したのだろう。映画では省かれたが、小説では終盤、宮本という学生が「北朝鮮とか韓国とか総連とか民団とか、そういう区別は一切ない」グループへの加入を杉原に誘い、杉原は断る。「おまえは正しいことをやろうとしている。俺がそれに加われないってだけのことだ。俺は忙しいんだよ」。小説は明言しないが、その後、杉原はこのグループに合流するだろうと読みたい(この件を略したのは映画の失点だ)。

映画は前半はとても面白い。穿った描写、例えば「総括」なる朝鮮学校の授業風景などとても興味深く、細山田隆人が殺される件を追悼を込めて長尺で撮る呼吸は素晴らしい。ギャグも冴えまくっている。しかし後半はたどたどしく感じる。萩原聖人大杉漣も、山崎努の弟の回想も、思いは判るが半端だろうし、柴咲コウとの和解は説得力に欠ける。これだけで、あの不気味な柴咲の父親(見敏之)を説得できるだろうか。

クドカンの技法について。松竹蒲田には同じネタを三度転がせという秘伝があったが、彼は大量のネタをそれぞれ二度ずつ転がす。本作では、親の海外旅行はハワイとスペイン、大竹しのぶは窪塚の料理を自宅と焼肉屋で二度仕分け、牛乳を学生たちと平田満に二度呑ませ、二度家出する。新井浩文(彼はいつも面白い)が朝鮮学校で禁止されているのに使ってしまった日本語は「めっちゃウンコしてえ」と「お宝ガールズ買ってこい」。シロクマが振り返るネタは繰り返されなかった。

これ、笑わせてもらっているうちは満足なのだが、物語がシリアスに傾いてからも同じ調子なのだ。冒頭の地下鉄のチキン・レースは細山田隆人が殺される件で回想され、『ロミオ』は冒頭と細山田死去の後に二度引用され、山崎努の商売は二度縮小され、彼の拳の届く範囲云々の教訓は窪塚の幼年期とクライマックスで繰り返され、山崎の習いたかったスペイン語を窪塚も学び、柴咲コウは小学校の校庭で流れ星と降雪を見て二度照れる。観ているほうはこのパターンに次第に慣れてきて、またか、と軽んじる気分にさせられる。前半は愉しく後半は不満、という感想が出てくるのはこのせいでもあるように思われる。

あと、これは原作通りなのだが、柴咲は桜井椿という名前を余りにも日本っぽいということで窪塚に隠していた訳で、それは窪塚がコリアン・ジャパニーズだと以前から知っていたからじゃないのかと臭わされているのだが、それならラブホの夜に告白されて殊更に驚いたのはなぜなのか。収束も含め、彼女との関係は残念ながらもうひとつ上手く語れていない。

シェークスピアの引用は的確と思う。『ロミオとジュリエット』もカソリックとプロテスタント対立の世情のなかで書かれた。窪塚の「コリアン・ジャパニーズ」という自己紹介は(「アフリカン・アメリカン」などと同様)国際的に正確。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)けにろん[*]

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