[コメント] コミック雑誌なんかいらない!(1985/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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この映画の大半は、内田裕也の、まるで異界から来た男が、混沌の異文化を受け入れられず恐れ慄いているかのような、焦点の定まらない遠い視線で構成されている。
彼は、世界全てからの疎外感(それは自らの出自であるロック界をも含む)を表出する為の立ち位置を求め、無責任なデバガメ精神の象徴である芸能レポーター「キナメリ」を創出する。 恐らく、当時の彼は、本当に時代に取り残されていた。 ロックの気概も、敗戦の記憶も、全て軽佻浮薄に転覆されたあの80年代に、彼は「恐縮です」の一言で、語るべきテーマも、貫くべきポリシーもないまま切り込んでいく。 しかし、敗戦。 そして、体験。 深夜の風俗体験レポートを通して、彼は時代に取り込まれて行く。 やがて、そんな彼に芽生える正義。 そんな彼の純情は、件のラストシーンに呑みこまれていく。 その時、映画が捉えているのは、彼が自らを疎外者として仮託したデバガメ精神の実践者たる報道陣達だった。 その後ろに透けて見えるのは、彼を阻害したはずの世間。 この「あれ?今どうなってんの?」的矛盾の中、彼の最後の行動は、極めて大衆的な正義の発動であった。
「I can't speak fuckin' japanese」
その後、内田裕也は都知事選に出馬。 個人として、無定見な社会に切り込んだまま、帰還していない。
そして30年後―――。 映画が描き出した時代から、身体性の排除を持って暴力の無力化に成功した、無菌的エゴの時代が訪れる。 キナメリがマンションに飛び込んだ、如何にも安っぽい社会道義と同質な物を基底に置いてw
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