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[コメント] GODZILLA ゴジラ(2014/米)

ギャレス・エドワーズという人が怪獣映画についてよく勉強していることはわかる。何気ない場面までまるで怪獣を撮るように撮っている。例えば廃墟となったジャンジラ市に捨て置かれた車のドアミラーにヘリが映り、そのヘリを父子二人が目で追い謎の施設が映されるまでの一連のカット割および目線の動きなんかがそうだ。本作は特撮場面に用いられる演出を本編でも使ってみせる一種の実験映画として見るべきなのかもしれない。
Sigenoriyuki

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







とりあえずオープニングが抜群にかっこいいことだけには言及しておきたい。CGのゴジラがいかにも後から合成しました感に溢れているのも高得点だ。この胡散臭さが良い。

さて、まずはCommentで何気ない場面までまるで怪獣を撮るように撮っていると書いたので、その点についてもっと詳しく見ていきたいと思う。

冒頭ヘリコプターが飛んでいくとフィリピンの鉱山が見えるロングショットになる、MUTOの巣に場面が移ると始めは暗くてよく見えないが、徐々に照明に照らされ全貌が明らかになる、幼少時のフォード・ブロディ(CJ・アダムス)とブロディ夫妻(ブライアン・クランストンジュリエット・ビノシュ)の別れの後自動車で原発に向かう場面で始めは自動車の周辺だけを映しているが徐々にカメラが引いていき原発まで捉えたロングショットになる。

このように始めは小さな部分だけを見せ、徐々に全体をロングショットまで見せていくという演出が多用されている。これはいかにも怪獣映画的な演出であり、怪獣が出てこない序盤15分間ですらそのように撮られていることがお分かりいただけるはずだ。

正直に言うと私はこの序盤15分間を見てこれはとんでもない傑作に出会えたかもしれないと気持ちが高ぶらずにはいられなかった。しかしその後15年が経ち舞台がサンフランシスコに映り成長したフォード・ブロディ(アーロン・ジョンソン)とその家族(エリザベス・オルセンカーソン・ボルド)の一家団らん場面の演出を見てその気持ちは一気に冷めた。役者を笑わせる、キスをさせる、それを適当に揺れるカメラで撮る。何とも芸の無い演出。その後息子アーロン・ジョンソンと父ブライアン・クランストンが再開し大量の新聞が貼られた部屋で会話するシーンも役者に喋らせるだけでそれ以上の演出が見られない。しかし警察に父を迎えに行く場面での視線の演出なんかは悪くない。そういえば少し前の少年時代において原発崩壊を見つめるCJ・アダムスの場面なんかも悪くなかった。そこで私は気づいた。これは特撮場面に用いる演出を本編でも用いることで生じた当然の弊害なのだと。つまり見る者と見られる者の間に一定の距離がなければ凝った絵作りや視線の演出ができないのだ。だから狭い屋内の場面ではギャレス・エドワーズの演出は全く冴えない。というより演出する術を知らないのだろう。

演出以前の問題として脚本のまずさも指摘しておきたい。普通なら父ブライアン・クランストンが死んだ後息子であるアーロン・ジョンソンがその意志を継ぐという展開に向かうべきだろうに父の死はまるで省みられず、妻エリザベス・オルセンに至っては何のために出てきたのかさっぱりわからない。とりあえずヒロインが必要だったので出したとしか思えない。

もっとも、この映画は怪獣映画だ。人間ドラマの不備など些細なことかもしれない。というわけで次は特撮場面を見ていきたい。

まずMUTOの武器が電磁パルスというのが良い。怪獣映画における最大の問題はいかに怪獣と人間が同じ空間に存在していると意識させるかということだ。もし怪獣と人間が同じ空間におらず別々のカットを繋ぎ合わせただけと観客に意識されてしまえば当然サスペンスも迫力も無くなってしまう。ここでは電磁パルスが二つの空間を繋ぐ媒介として機能しているのだ。また、通常兵器が使えないことにより核弾頭を列車で運ぶことになるというシチュエーションも面白い。

そしてやはり絵作りが冴えてる。オープニング以降初めてゴジラが姿を現す場面において、津波に段々飲み込まれるビルの上で照明弾が放たれそれがゴジラの巨体を照らすまでを1カットで捉えた場面、アーロン・ジョンソンが被ったガスマスクやスクールバスの窓に怪獣の姿が映り込むなど反射物の使い方も冴えている。特に素晴らしいのは核廃棄物処理場で兵士が部屋を一つずつ確認していくと突然強い光が射し込む、すると兵士が一斉にそちらの方を向き、扉を開けると巨大な穴が映される、ここまでの一連の動き、そのアクション演出の的確さ。

過去の怪獣映画を記憶を呼び起こさせる場面も満載だ。あくまで管見の範囲ではあるが列挙させてもらうと、ハワイのジャングルでMUTOが核を食らう場面は『ガメラ 大怪獣空中決戦』、空港に怪獣が現れるのは『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』、空港のロビーでガラス越しに怪獣が映される場面は『ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒』、カジノが停電する場面は『ガメラ2 レギオン襲来』、墜落した飛行機の残骸や戦車の残骸が川を流れていく場面はスティーヴン・スピルバーグの『宇宙戦争』、卵を焼かれて激昂するMUTOは『エイリアン2』、河に飛び込むMUTOは『空の大怪獣ラドン』、そして橋を引きちぎり進むゴジラの姿はまるであのマックス・フライシャー版『スーパーマン』の傑作エピソード『The Arctic Giant』ではないか!

とはいえ、逆にここまで既視感に溢れていて良いのかと思う。正直新しい絵作りという意味ではローランド・エメリッヒ版の方が優れていたとすら思う。

結局お前はこの映画を肯定したいのか否定したいのかどっちなんだと思われているかもしれないが、その二択を迫られるのならば私は迷わず否定を選ぶ。それはこの映画がゴジラ足り得てないからではなく、ただ映画足り得ていないからである。確かに怪獣映画を研究した凝った絵作りが功を奏し、映画的な場面を作り出している箇所はいくらかある。しかしギャレス・エドワーズは根本的に映画を知らない。

では映画を知っている監督が撮ったゴジラ映画とは何か。福田純監督の『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』である。大森一樹監督の『ゴジラVSキングギドラ』である。大河原孝夫監督の『ゴジラVSメカゴジラ』である。手塚昌明監督の『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』である。本多猪四郎監督の初代『ゴジラ』ではない。

伊達や酔狂で言っているのではない。私は大マジである。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)Orpheus 3819695[*] けにろん[*]

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