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[コメント] レオン(1994/仏=米)

哀しき殉教者。(Pray for the father.)
ケネス

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







2014/04/20付け北海道新聞に「新潟県三条市内にある全30の小・中学校の学校給食で、試験的に牛乳を給食メニューから外す試みが行われ、道内の酪農家に波紋を広げている」という記事が載った。

和食には牛乳が合わないというのが理由だそうだ。俺等が小学生の頃は給食で余った牛乳の争奪戦があり、一本でも多く牛乳を飲みたいという欲望は皆が肚に持っていた。通っていた小学校は都内(区部)にあったが、歩いて行ける距離に乳業会社と、併設された大きな牧場が有り、社会科見学で出されたコーヒー牛乳の旨さは、40年経った今でもありありと思い起こすことが出来る。

そもそも牛乳の学童への配給は、元を辿ればGHQにあるだろう。劣悪な栄養状態の敗戦国欠食児童に手軽な栄養と言えば牛乳が一番だった。脱脂粉乳のまずさを訴えることが未だに飲み屋での共通話になる世代も敗戦国特有のものだ。勿論、栄養学的に手っ取り早いという事実はあるにせよ、“パンと牛乳”を与える、というのは、実は優れてキリスト教的な行いである。俺が通っていた幼稚園はカトリック教会の経営する幼稚園で、「天にまします我らの父よ、願わくは御名のとうとまれんことを…」と毎日の食事の前に瞑目してお祈りしたものだが(未だに諳んじることが出来ることに我ながら驚くが)、幼稚園ではシスター手ずからパンと牛乳が配られる日があったのである。

マチルダ(ナタリー・ポートマン)が殺し屋の襲撃を躱せたのはレオン(ジャン・レノ)の飲む牛乳を買いに行っていたからで、何よりレオン登場のシーンはサングラスのクローズアップのみで顔すら判別出来ず、代わりに牛乳の入ったコップのアップ、次に飲み干された空のコップのアップ、まず牛乳を飲み干す男として描かれる。そしてレオンの半身像が初めて示されるのは最初の仕事(手際のいい殺戮戦)が終わって地下鉄に乗っているシーンで、後ろ姿のため顔はわからず、だがこの画を静止画として止めてみれば、誰がどう見ても神父の後ろ姿そのものであることに論を俟たない。グローサリーストアでようやくレオンの横顔が拝めるが、そこでの台詞は店主の「いつものミルク二つか?」で、しつこいほどにレオンと牛乳の関係が繰り返される。店を出るレオンの格好は黒いコートにツッケットで、最早レオンが宣教師を模していることに疑いは無い。

さて、この映画は『ニキータ』から派生した映画で、言わばスピンオフもどきであったが、『ニキータ』『レオン』と固有名詞そのものがタイトルになっているという欧米独特の感性をひとまず措いて、受験英語的な「タイトルに固有名詞で無い適宜な単語を選びなさい」という問題に答えるとすれば『ニキータ』は、The mission になるだろうし(先行する名画『The Mission』があるからそのような命名は現実的ではないが)、missionには“特務”という意味の他に“伝道、布教”という意味があるのは余りに周知のことであるので、『レオン』にはずばり The missionary と名付けるのが相応しいだろう。さらに結論を急げば、レオンが大事にしているのはプランターであるが、missionaryに“plant”という単語のイメージを聞けば、それはもう「外地に教会を建てる」ことに他ならない。(外地というのは勿論植民地のことである)。

つまり、レオンの行っている仕事(=殺戮)は、欧米のキリスト教者達が新大陸にやって来て行った布教(=殺戮)そのものの投影なのである。そこで、どうしてレオンが宣教師である必要があるのかを見て行く。

レオンは殺し屋として腕がいい。抜群に切れる所作だ。だがこの男を切れ者列伝に推挽する訳には行かない。

冒頭のシーン、マチルダが家族が惨殺された部屋に帰って来る。それは当然予測可能な出来事だ。何故ならマチルダはレオンにミルクを買って来てあげると言って出たのだから、事の真っ最中に帰って来てしまうことを予測するのは容易であるし、さらには遅れて帰って来ることや、何かの都合で帰って来ないことをも願うのが普通の思考であるだろう。そして万が一帰って来てしまったらどうやって匿うかに既に思いが至っているのが切れ者の思考だ。だが、帰って来たマチルダに対しレオンは逡巡する。ドアの向こうでburstしているマチルダを受け入れようかどうか迷うのである。これはどう贔屓目に見ても頭の弱い男の行動だ。しかし、それは先行する『ニキータ』を観ればわかる通り、“殺し屋”は頭の弱い方が向いているのである。命令に諾々と従い疑いを持たない、これは良い殺し屋の具備すべき性向だ。だがしかし、この逡巡には別の意味を見つけることが出来る。ここにレオンが宣教師足る意味がある。

ドアを開ける。それはもう修辞としても象徴としても“受け入れ”そのものである。逡巡は、自分の教義へマチルダを浸礼させて良いかどうかの逡巡であり、殺戮者や危険を鑑みての迷いでは無い。ここで取られた演出方法を見れば火を見るより明らかだ。開かれるドアは描写されない。アップショットのマチルダの顔にだんだんと光が当たってドアが開いたことが表現される。余りにもわかりやすいイコノロジ−、光あれ。

レオンが宣教師であることの意味は、だがもう一段深い事態を示唆している。キリスト教が行った野蛮行為、それは唯一神教であるが故の排他性に由来するものであるが、当の行為者はキリスト教に信心しない野蛮性を排除しているだけで、「よかれ」と思ってやっている。そしてそれが本源的なキリスト教の罪悪であるのだが、宣教師レオンもその傲慢から逃れ得ていない。どういうことか。

マチルダにも家族がいたことを忘れてはならない。仮令碌でもない親であってもだ。その生みの親、育ての親よりも、私という《宗教的》親の方が優れているのでこちらへ帰依しなさい、これが宣教師足るレオンがドアを開けてマチルダを入れることの意味であった。これはかなりの宗教者的自信がなければなしえない。だから、この宗教的要請に応えるために、頭の弱い宣教師は黙考することを余儀なくされた。善き父になるにはどうしたら良いのか、父性とは何か。そしてその答として捻出されたのは、金=養育費を残すことだった。その短絡的な情緒の至らなさが哀しい。この哀しさは『男はつらいよ 寅次郎かもめ歌』で渥美清伊藤蘭に見せた父性のそれと似ている。父として出来ることとして究竟思い付くのが金子しかないのだ。

しかし、この切ない父親像がレオンを名画にしたと理会するのはまだ早い。優れて映画文法的な仕掛けが最後に用意されている。マチルダはレオンの遺品を抱えて独り学校の門を潜る。そこで良心的と思しきメンターに今まで起こったこと(観客が目撃したこと)を話すが、どうやら信じてはもらえなかったようだ。これは、『ディア・ハンター』で、凄惨な戦地から帰還したロバート・デ・ニーロメリル・ストリープ宅を訪ね、熱烈な歓迎を受けた際に「怪我はどう?」と訊かれて、観客が目撃した究極の艱難辛苦を全く伝えず、「何も。よくある合併症だけさ」と答えたことと等しい。観客は演者によって、今まで目撃してきた物を、共有されるべき秘密として無理矢理授けられるのである。『サブウェイ・パニック』や『ファンダンゴ』で、最初から最後まで眠りこけていた人物がいるのは、観客にこの共謀を約束させるためである。この文法の変奏は枚挙に暇がないだろう。

俺はスティングを尊敬し、私淑し、いつか一緒に演奏する日が来ると信じて、鎌倉武士のように研鑽を怠らないようにしている。もし、レオンを作ったのがリュック・ベッソンでなく俺なら、スティングに、「あなたとドミニク・ミラーの'Shape of My Heart'のためにちょっと長いですが、ミュージックビデオを作りました」と言ってこの映画を渡すだろう。スティングはきっとMotherfuckerと言ってくれるに違いない。そうだよねえ、ブランフォード・マルサリスさん。

レオンに最大級の賛辞を贈る気になったのは、二本のクソ映画を見たからだ。その二本とは『レオン−完全版−』と『キック・アス』である。完全版の何がクソって、レオンがマチルダを抱けない理由をトラウマとして語ったことだ。え? あんたマチルダの父親になるって覚悟決めたんだろ? トラウマ経験が無かったら自分の娘を抱くのかよ。俺ならマチルダにきっぱりとこう言うね。「俺は、身長が止まってない女は抱かないんだ」

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)Orpheus けにろん[*]

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