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[コメント] サブウェイ・パニック(1974/米)

仕事が出来る男とは。(What are wise men like?)
ケネス

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







中学生だった俺はオープニングの格好良さに痺れた。デヴィッド・シャイアのジャズにやられたのだ。だが今観ると記憶にあるメロディとちょっと違う。『摩天楼を夢みて』と記憶がダブっていたようだ。いや、このスコアは充分にかっちょいいが。

サブウェイ・パニックという邦題は余り感心しないという意見が当時多かった。『タワーリング・インフェルノ』と同じ1975年公開のせいでパニック・ブームの一翼を担わされてしまった。タワーリング・インフェルノのあの現場の雰囲気、パーティ会場の雰囲気も消防隊の雰囲気も、一級品の群像劇!だが、一級品とはちょっと違うリアルがこの作品には横溢している。とにかくいいんだな、雰囲気が。いや、現場の雰囲気がね。有り体に言ってしまえば“リアル”なのだが、“リアリティ”と“リアリズム”は違うとか、そういう話は置いておいても、とにかくリアルな現場なのである。若い人には現場と言えば君塚良一なんだろうが、『交渉人』のあの現場とこの現場では大人と子供だろう。いや、ユースケ・サンタマリアをくさすつもりは毛頭無い。パスティーシュにケチを付けるほど野暮天じゃ無いが、疾走通過する列車に対してさっと柱に隠れる警官、「お、『天国と地獄』!」って昂揚する感情。それでこそパスティーシュでは無いのかい。それに何が違うって、この映画は社会病理の香りに満ち溢れている。密室の車内の匂いで、社会がちゃんと匂って来る。認識の地平が低くて広い。視線は低くて広い方がいいって言われるだろう。社会科学的。元地下鉄運転士が犯行に加わる動機の《麻薬》《濡れ衣》が、取って付けたように聞こえないのはそのせいだ。

およそ演出としてこれだけの雰囲気を作ることが出来たら大喝采だよ。俺が製作者サイドにいたのなら、試写でワクワクしちゃって多分泣いたんじゃないかな。

当時、訳のわからない日本人像、というか紋切り方の日本人像だと言って批判されていたが、見直してみると日本人連中は最後に英語を流暢に話すんだね。それは記憶から落ちていた。ウォルター・マッソーは日本人ご一行様を英語の話せない野蛮人紳士として、最後にはモンキーとまで吐くが、このおじぎばかりする慇懃背広猿は実は英語が話せた。それでウォルターは首を振るが、これは呆れたと言うより、理解不能な人種と言う意味だろう。とするとこれはあれか、『猿の惑星』の猿像、というか日本人像と被っているのかね。ウォルター・マッソーは最初、丁重な接待をしている。それは会長の客だからというせいもあるだろうが、今忙しいと言ってぞんざいな態度を見せた連絡官とは、ウォルターは性格が違うというか人種が違うという風に描かれている訳だ。この人物像が秀逸で、犯人とのやりとりの中で最初にくしゃみを聞いた時に間髪入れず「ゲズントハイト」だけで済まし、勿論これは伏線なのであっさり流す演出は必要なのであるが、そのあっさりの流し方(演技)が素晴らしい。犯人との交渉ということにアップアップであればくしゃみに言及することなどないであろう。ウォルターの人物像は、“視野が広い奴”と描かれている訳だ。そしてただ視野が広いだけでは無く、物事の軽重を瞬時に順序立てて並べることが出来る、まあ所謂“切れる奴”として提出されたんだな。

とすると、この映画は「仕事が出来る奴とは何か」というテーマであり、仕事が出来る奴とは“気が付く奴”と言ってしまえば結論の先取りになってしまうのだが基本はそういうことだ。

車の後部座席で総監が地区司令に電話を架ける。そして運転手に向かって「(ラジオの)音楽を切れ!」と怒るが、この小さなエピソードは何だ? タクシーの運転手にラジオを切れというシーンは他の映画で山ほど見た気がする(するだけか?)。それとこれとは同じルーティン・エピソードなのか? 違うだろう。ラジオを掛けたのはニュースを聞くためになされた総監の命令故の筈だ。だが、運転手はニュースが終わって音楽が始まったのに即座にラジオを切らなかった。運転手の無礼が咎められた訳では無く、運転手の気遣いのほんのちょっとした遅れが咎められたのだ。これは、ビジネスマナーの本で自動車内の上長の席順などを四苦八苦して暗記している新入社員君などにとっては堪らんだろう。ビジネス・マナーはそこまでやらにゃあかんの? ってな。だがそこまでやらにゃならんのだよ。

とにかく、この映画は仕事が出来る奴で一杯だ。トランシーバーに小声で話す最前線の黒人警官も指令を出すサングラスの黒人警視も余り頭が良さそうでは無いものの無駄口とは無縁の地区司令白人警官とかみんないい仕事しているぜ。助役。この助役も切れる奴だ。しかもこの人物が最初に登場するのは電話の声だけ。紹介無しに声だけで切れ者だとわかる登場。んーマンダム。男だけじゃ無い。市長夫人も切れる。市長夫人の「18人の票が入る」なんていう気の利いた台詞に一頻り笑わせてもらう。そしてそのすぐ後、緊迫の現場へ画面が切り替わり、同時に音楽が入る。この効果的な場面転換と音楽。これは演出法としては古いけれど、こういうのが70年代の最良の映画のシーンじゃないかね。ここでは弛緩の後に緊張(w/music)と言うパターンが繰り返されるが、その次には今度は緊張→緊張(w/music)になる。いやあ、上手いなあ。役者だけじゃ無く監督も切れる。しかしその後、政治関係の切れ者達は意に反して市民のブーイングを受けて、切れ者振りが無駄になった。現場にいない切れ者にはバツを。だって事件は現場で起きているんすから。

また日本人団体様のエピソードに話は戻る。この話は、まあいわゆる作劇的な豆集めの一つとしか思っていなかったが、どうもそれでは収まらない引っかかりがある。彼等は結構長く登場するでは無いか。日本人を猿とだけ蔑んでいる訳では無いようだ。彼等はエリートだと言うほのめかしがある。ただ日本人の訳わからなさだけをぶち込んでおけばいいのに、何故彼等は背広を着て英語を話した? 穿って言えば、これが太平洋戦争における“日本人”の、“庶民”では無い、“為政層=軍部=エリート”だという一つの驚きの表明では無いのか。こんな奴等が軍の上層部だったんじゃね? と言うね。背広は制服(=軍服)なのだ。アメリカ側の服装のてんでばらばらさ、ウォルター・マッソーの派手なネクタイとシャツとの対比。而して、こんなエリートが今起こりつつある事件をどうやって解決出来るんだ? と言う、これは日本人批判プラス、“机上の人間”批判だと見直してみて気が付いた。

とにかくあらゆる人物像の造形がいい。市長が最初に事件の報告を受けた後、いきり立たない。渡辺謙が市長なら、眉を顰めて「何だって?」といきり立つだろう。いや、渡辺謙を批判しているので無いよ。素晴らしい役者に俺がとやかく言うなどアホの仕業に過ぎない。報告を受けた市長はテレビ注視に戻って、そこでテレビに対して雑言を吐く。これから自分が巻き込まれる厄介に対する唾棄な訳だな。この唾棄に至る端緒、市長はことの軽重の判断を誤っている。助役に叱責されて自分の判断を引っ込めるが、どうやら判断を誤らせたのは風邪のようだ。この映画には風邪を引いている人間が二人出て来る。風邪でしくじる男が二人だ。風邪は“仕事が出来る人間”をしくじらせる。いや、またもや結論の先取りをしてしまった。いかんなあ。

職責を全うする男達は美しい、というテーマが根底にあることはわかったが、いい映画と言うのは複相的だ(別に映画に限ったことでは無いが)。車掌は金を取りに行かされ撃たれて死ぬ。犬死にだ。非常時なんだから服務規程もクソも無かろうに、車掌は嫌々取りに行く道中にご丁寧に制帽を被り直す。彼は「何故俺が」と一言漏らすが勿論その理由はわかっている。だが職務の中に、殺される可能性が限りなく高いのに身代金を取りに行く、などというものが含まれるはずも無い。犯人グループの中で口にされた言葉がある。‘order’命令である。命令であれば疑義を挟むことは許されず服従遂行せねばならないという掟。これは軍隊のものだ。会社、を軍隊に擬すれば勿論そこで発せられる命令も同じものだ。“制服”は命令に服従するという義務を持つ。恐ろしいことだ。車掌の死は、犯人グループによって呈示された“戦時(軍隊)”だったのである。制服着てるんだもの、殺されても文句は言えないよ君。職責を全うする=制服を着るのって実は途轍も無いことなんだぜという複相呈示がここにある。

制服を着ていれば職分の中に“死”も含まれるのはわかったが、最初に殺された主任は制服を着ていないものの、殺される。彼は職分に忠実な余り直情な行動をして撃たれてしまった訳だが、その前に「女なんか雇うからだ」と男権主義差別発言をしている。そういうバイアス野郎は“仕事が出来る人間”たり得ない。ウォルター・マッソーは地区長の胸ぐらをつかみ押し倒す。この衝突は初めてでは無い。地区長は最初は自分の職務を全うする余り交渉中のウォルターに窘められる。ここまではいい。だが幾ら職務を全うする男が美しかろうと、ゲマインシャフト野郎は粉砕されるのだ。職場は男の神域であると信じて疑わない(それ故に自分の職責に矜恃を持っているのだが)男が二人、女性差別発言をして、その二人ともバツが与えられている。この映画が作られた1970年代初頭は、ウーマン・リブの成果が世界中を覆い始めた時だ。“ウーマン・リブ”など、今では死語だろう。だがこの真っ当な社会運動が男社会に突きつけたものが、脚本にそっと、だが確信を持って取り入れられていることに感心する。声高で無いところがいい。その後数十年の時を経て、女性上司の登場は映画に於いても当たり前になっていくのだが、そのカナリアがここにいる。アメリカ社会は、黒人の次に女性を発見したのだ。

職責を全うするだけでは仕事が出来るとは言えない。ことの軽重の判断が出来ないバカである可能性があるからだ。その、ことの軽重の判断にはPCさえもが要求される。ことの軽重の判断をすることを一言で言えば‘priority’だろう。先頃のアンケートで、わかりにくいカタカナ語の一位に‘プライオリティ’が選ばれていたが、prioritizeが出来ない人間がバカと呼ばれることはもっと知れ渡っていい。ウォルターの言う通り、最後まで仕事を最も完璧に遂行してきたのは犯人グループなのだが、結局はバカだから破滅した。だって最後に“priority”も“気配り”も忘れたんだからさ。想像を超えたpriorityを行動原理にしたwise menは『突破口!』だろうが、それは別の映画だ。

俺がここでは敷衍しなかったもの。それは「死を賭して何かに当たる」と言うことの意味だ。ロバート・ショウはorderを口にした通り元軍人だろう。戦争を経験した軍人が平時に生きると言うこと。「死を賭す人間」の扱い難さ。車内の18人の中の一人の黒人青年がベトナム帰りであることを口にするが、映画公開の1974年はベトナムからの米軍全面撤退が完了したばかり、ベトナム帰還兵問題が世を賑わせるのはまだ先である。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (5 人)Orpheus ぽんしゅう[*] サイモン64 けにろん[*]

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